熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

独立美術協会の独立展に行ってきた。

午前来客があり、義父が残した写真などをご覧になる。
熊谷登久平のアトリエ兼自宅は空襲で焼けておらず、大正から昭和にかけての画壇の写真が残っていて美術史を研究されている方には魅力的なコレクションとなっているようだ。

ただ、物によっては私が公開してから何度も光にあたり二カ月ほどの間で痛んだものもある。
そろそろそれらも私の古巣の博物館に収蔵してもらわないと危ない。
私が仕事をしていた頃は酸性紙が問題化した頃で、ある程度知識はあり気をつけてきたが、もうダメだ。
個人蔵では限界だ。

ある記者がカメラマンを連れてきて複写をすると言っておられたので、それが済んだらと思っていたけど今日一枚が剥がれた。
ここから先は専門職の仕事だと思う。

酸化怖い。
です。


午後、義父が可愛がっていたという画家の絹谷幸二先生がお話しの機会を作ってくださるとのことで、乃木坂の新国立美術館へ。
元戦記ライターだった私にとっての懐かしの防衛庁防衛省になってしまい建物も少ししか残っていない。
防衛省への昇格と移転ですけど、つい昔を懐かしむ。


もう慣れた場所なので千代田線の根津駅からサクっと乃木坂駅に行きほぼ美術館直通改札を抜けて独立展会場に行き、事務局には熊谷登久平遺作展のパンフレットを置いて絹谷先生にお会いして、我が家に遊びにきてらした時代の話を伺う。
その頃、夫は子どもなので良く遊んでもらったそうだ。
絹谷先生にも遺作展のパンフを渡す。
先生の師でもある林武先生の言葉も載っているので喜ばれた。
義父は独立美術協会が分裂する前から、第一回から絵を出していた。独立美術に入るきっかけは里見勝蔵先生なので里見先生の追悼の言葉も載っている。
戦後のもので林武先生と里見勝蔵先生の言葉が並ぶのは珍しいと思う。
あったらごめんなさい。私素人なので。

でミーハーな私は絹谷先生からサインを頂いた。
あと独立展のハンカチとボールペンを購入。

ここでよく書くけど、熊谷登久平は忘れられた画家で、独立展会場内で覚えていて下さったのは絹谷先生だけかと思っていたら湯澤宏先生が知っているとおっしゃって下さった。
http://www.dokuritsuten.com/member/7y3_yuzawa/78.html

お話を伺いたかったけど、司会進行をやっておられたので機会がなかった。
当時の人たちに義父はどう見えたのだろう。
中堅のままで亡くなり忘れられていった義父。
六十代になって新しい形が出てきた所で亡くなられたのは惜しい。
と、私は思うです。