熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

千厩紬

熊谷登久平が書く千厩は絹の産地で女工さんが沢山いて、晴れの日は着飾り、また四季折々の色彩豊かな世界だ。

熊谷家に残る写真にも義父が懐かしむ風景があり、それは階級社会で豪商と呼ばれた家だからあった日常ではあるが、美しい。

雪が降りつもり、家に籠り、江戸時代からのカルタを楽しむ様子や、熊谷伊助からもたらされたであろう緋毛氈、雛人形。ランプの手入れ。
そして雪が溶け土が出る喜び。

そのためか、義父の風景画には春が多い。春を題材にしたものがとても多い。
桜、杏、梨、白黒でしか見られない絵も多いが、登久平の春は、春に満ちている。

で、私は登久平が自慢する千厩の絹製品を見てみたいと思っていた。
が、昭和50年代に復活したという南部千厩紬のサイトの購入ページが今はコロナ禍のためか開けない。のと、もしも開いていたとしても買える金額ではなかった。

伊助が今江戸は荒れているから、京へ送れなどと采配をしていた千厩の絹。
光沢があり、伊達藩の大切な産業だったともあるが、想像するしかない。


http://www.oriz.jp/
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念のために書いておくが、私は研究職ではない。研究職に資料を渡すだけのresearcherだった。
だから他に書く人がいない場合だけ、頼まれて報告書を書いていた。史学冊子も他に書く人がいないからと頼まれた。もちろんノーギャラだ。学位と実績でギャラは決まるので、そうなる。
例えば私の頃はNHKのギャラも学歴で決まっていた。




一度社会的立場がとても強い女性が、私が多くを奪ったと嘆いたために大騒ぎになり胃が異常に痛んだ。
帰宅後、私は血を吐き、保育園児だった子どもが私のための薬を買いに行き帰りに片足が皮一枚で繋がるような交通事故にあった。
その薬がユンケルなのも今も悲しい。

幸い、のちに医者が選ぶ名医となる2人の医師がいる病院に運び込まれ執刀された。
切断はなく、また砕けた骨も洗い戻したのが繋がり、心配されていた障害も出なかった。
ただ腹部から皮膚をとり酷い場所に移植をしたので、娘の腹部には大きな傷が残る。
移植した足も色々目立つ。
この傷で小学生一年の時にゾンビと娘は虐めにあい、投石も受けている。運が良いのは担任がきちんと対応してくれたことだ。ゾンビとは言われなくなった。

娘の足には今も酷い大きな傷が目立つ場所にある。私がわきまえていたら娘が事故に遭うことはなかったであろう。
また慰謝料がたくさん出たと言われることもあったが、飛び出しなので医療費とか私の休業日補償と幼児の慰謝料だけだ。成人後に足の傷を治す話になっていたが保険屋の関係者が退職していたので立ち消えした。



私には学芸員資格どころか学位もない。あると言ったこともない。
教育委員会の身分証明書をもつ調査員だったのは本当なので、恩を忘れたことはない。