#なんでも鑑定団 #長谷川利行 #カフェ・パウリスタ の回が今日再放送される。
と、思っていたのに贋作の方の回だった。
使われた写真は若い頃の犬を抱いているの以外は癌末期の矢野文夫氏が撮影したもの。
ぼろぼろの漂流は矢野氏たちが長谷川利行の哀愁を出し仕事売るために演出したもの。
少なくとも義父との写真の利行(思われる)はお洒落だ。思い出の中でも爪がきれいな利行だ。
登久平は利行のために広い内風呂を作っている。登久平と利行が朝風呂に通った銭湯はいまはないが、初音町に平成まであった。利行は髭の手入れもしていた。
長谷川利行を汚かったと書く人もいるが、それに対して親友だった熊谷登久平は怒りを押し殺した文章を残しており、矢野氏とこの家で大喧嘩をして終わっている。
利行は酒のために服を売ってしまう。
でも友人たちの服を確信犯で借りる。なんでも鑑定団で演出されたズタボロの利行は違和感がありすぎる。あれでは宿所に入れない。
東京市の貧民向けの施設は伝染病に対して神経質だったのだから。
登久平と利行の蜜月時代の作品のカフェ・パウリスタの再発見エピソードは近代美術館のサイトにある。
夫が小学校の同級生(女子)宅に遊びに行くと「お父さん(熊谷登久平の後を追って利行が向かいに住んだ)と、利行さんは窓越しで朝から喋り、(登久平宅で)飲むと騒ぎうるさかったよ」と聞いていた。
ので鑑定団へと助言した。
https://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/15_pp.60_73.pdf
登久平の息子、夫がこの再発見に寄与している。
報告書で義父の #長谷川利行 を偲んだ随筆を引用してるから、理解してもらえるかと我家には同時期の長谷川利行のスケッチブックと、戦前からの新聞や雑誌のスクラップに写真アルバムがあると何度も近代美術館にも連絡したけど数年間相手してもらえず。
自分が博物館勤務期間に一番されたら嫌なこと、熊谷登久平の息子の書き方にクレームを「寿郎という名がある」と、入れてやっと折り返して連絡がきた。
残念ながらスケッチブックを見てほしいという願いは叶わず、持っていくと言ってもそれも困ると言われてしまった。
不思議なのは1920年代の長谷川利行の作品が入ったと喜んでいるのに、その時代の長谷川利行の日付が入り文章もあり、交流関係も今は忘れられているものも載っているスケッチブックを何故見たいとも思わなかったか。
私は違う場所と立場で教育委員会が出した公的身分証明書を持って歴史の調査員をやっていた。
B-29のプロペラ一枚でも私は公式記録を探し、自腹でアメリカに行ったし、空襲の写真一枚でも背景を調べた。
足立区立郷土博物館や江戸東京博物館、青梅市博物館に展示されているB-29の残骸は私が調べて博物館に展示されることになったものだし、某大学に収蔵されている横浜空襲の時のB-29のエンジンも私が東工大の一角に草で埋もれていたのを戦時中の研究者だった一色教授に依頼を受けて調査し報告したものだ。
調査員だから名は埋もれる。
別に私の名が埋もれるのは構わない。
資料を歴史の一葉にするのには背景を調べる必要があると私は信じてきた。
私は美術史の世界には経験はない。
学生時代に田中祐一先生の指導を受け上野の山の話を聞いた。
中学の同級生宅に美術資料が多く有り、家には美術の百科事典があった程度だ。
美学の世界では外野であり、野良の研究者ですらない。ど素人だ。
しかし、嫁いだ家に長谷川利行と思われる資料が、長谷川利行が描いたと思われるスケッチブック、長谷川利行と思われる知られていない生写真があったら、専門家に委ねようとするのが、オタク、野良の歴女がやるべきことだろう。
ただで差し上げるから調べてくださいとお願いして数年。
返事がなかった博物館系あちこち。
調べてもらえないから、ど素人の私が長谷川利行関係の資料を求め、素人であるので要領悪く調べて、どう考えても長谷川利行のものだろうと、でも古巣の足立区立郷土博物館の学芸員さんしか信じてくれない。
去年やっと複数の美学の学芸員さんたちに調べてもらえた。
数年前はタダで収蔵してください。差し上げますからお願いします。このままでは痛んでしまいます。研究されるべき資料です。と、お願いしていたけど、それから数年間私が本物だと主張するために買った資料代、岐阜県多治見から岩手県まで調査に動いた経費。
これ、少しぐらい回収したいし、寄付するとお願いしたから本物と判断してもらえなかったのかとヘソを曲げている部分もある。
買うって言ってくれた画廊はあったけど、これ義父が大切に大切にしていた物だから個人蔵やバラバラにしてはダメだと熊谷家の嫁として思う。
また資料として活かす以外に義父が誰にも渡さず秘していたものを公開する言い訳にもならない。
と、思うのですよ。
本当なら浅草讃歌も入っているし台東区で執筆されたものだから、台東区で公開したかったけど、台東区は真っ先に連絡して寄付は受け付けてないと言われてしまい。
浅草文庫も無くなっていた。から切なかった。
スケッチブックの形のまま、公開される場所に受け入れてほしいと願う。
古巣の足立区立郷土博物館に預けてあり、美学の学芸員さんが正規職員なのが物凄い救いです。
ここにアップしている写真も貴重なものだと思う。
それも含めて、1930年前後の画家たちの時代の研究対象になるのではと、私は思うのです。
そして私では力がなく知識がなく、橋本病による記憶障害もあり、夫には心臓にサルコイドーシスという時限爆弾もあり私も弁膜症。
長生きできるかもしれないし、寿命が来るかもしれない。
大学に入れという助言もありましたけど、金もないです。
プロに長く任せたいと思うのは贅沢なのかな。