熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

気がついたら30年以上平成で生きてきた56歳。人生の半分以上平成なのね。

<p>今週のお題「平成を振り返る」</p>

 

昭和63年8月に長男を産みバタバタしていたら昭和天皇崩御され平成がきた。

思えば私はまだ20代後半の26歳。

漫画家かアニメーターになりたくて18歳で上京し、全国から集まった絵心のある同世代と触れ合って自分には才能がないと自覚しマーケティングの講義だけは真面目に受けた。

高校の時に戦前に国立の女子師範学校を出た先生から「文学を目指しなさい」と言われていた。可愛がられていたとは思う。

卒業アルバムの言葉を書くのに私を指名したし、文集のイラストも指名されたが、イラストの指示は写真を見て描くだった。

 

私が賞を取る絵はデザインやデッサンをアレンジしたもの。

絵の先生は田中裕一先生。

当時、先生は癌で亡くなり指導者を失った状態で絵はフラフラしていた。

 

短歌は奥田ぬい先生。女子師範学校出身。

東京で短歌を学ばれてた先生だけど、筆名忘れましたごめんなさい先生。

 

絵は無理だと自分で見切り、編集になろうと思い小さな出版社で仕事をして竹ノ塚から人形町に通い満員電車で流産をした。

残留してて処置が辛かった。

 

子は諦めてたら息子を授かり、切迫流産をしかけたり、前置胎盤が発覚したりで入院だらけの妊婦だったので、専業主婦になったが、少し入力の仕事を在宅で受けたりしてたし、実はオニギリ工場でパートも経験した。

当時はバブルの前兆でオニギリ工場は認可保育所を持っており、そこに預けて仕事をする。

 

平成に最初に働いたのはオニギリ工場だ。

 

妊婦時代に東京の友人ができ彼女らとは今も付き合いがある。

子が生まれたら公園で遊び、スーパには自家用車に乗り合い出かけ、乳児幼児が遊べる博物館なども彼女らと行った。

彼女らの親は大卒が多く、戦災にやられなかった家は裕福な方だったと思う。

 

宮内庁の人がたまに来る家は浅草に屋敷があり焼け出された。彼女は宮様の妾腹の家系でお父様の葬儀にはきちんと宮内庁の人が来ていた。

そういえば竹ノ塚には昭和天皇の義兄の元奥様が住んでいた。

 

 

私は竹ノ塚で新聞配達をしながら学校に通っていたので、勧誘業務と集金で、高所得層向け団地と、焼け出された人や満州などから帰ってきた人向けの団地、低所得層向け団地の空気の違いを感じていた。

高所得層向け団地だった公団には、東大の教授や新聞記者に医者、子にバイオリンを習わせる家も沢山あり、ピアノと水泳教室は当たり前だった。

東大の教授宅には何故か可愛がられて、女子大出の奥様から話を聞くのも好きだった。

 

低所得層向けの団地は集金も大変な家があり、また景品目当てで契約は短期間が多かった。

公団は数社の新聞を取る家が普通にいた。

 

竹ノ塚に辰巳という靴屋があった。

辰巳というパチンコ屋もあった、辰巳は通名でのちにピーアークというパチンコ屋になった。

昭和の話が続いている。

 

竹ノ塚の公団の第三団地には元過激派の人も住み鍵を何重にもかけていた。怯えていた。

 

公団は元々高所得層向けだったので家賃が高かったが人気があり、競争率も高かった。この層の子どもが通っていた足立区立十四中は日比谷高校や開成高校などへの合格率も高く、当時は足立区の学習院と呼ばれていた。マジで。

生徒は千葉県や埼玉県からも集まり、足立区もそれを意識してか先生の層も厚かったので私は8歳年下の弟を通わせたいと思い、借金取りが来る実家から弟を引き取った。

十四中に入れるのには第三団地のコネを使った。

 

続く。