熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

障害児の親たち

弥生の本屋さん、緑の本棚の「落田洋子装画本展」ヘ。

結構面白い展示でした。

今週いっぱい。

 

2年後には熊谷登久平の装丁本も含めた装丁本展が開催される予定です。

 

サボテンのサイダー美味しかったです。

 

前にも書いたかな。

私が住んでいた団地に大柄の自閉症の男性がいた。子ども時代は多少の問題行動でも仕方ないですんだし、手を繋いでいれば外出も大丈夫だった。

成長していくにつれて身長体重が両親をこえ、親が見守りきれなくなった。

成長は親の喜びであるが、その男性は心は幼児で体は大柄。幼い心のまま児童公園の子どもと遊ぼうとしたり、飛べると思い込んで高所から飛び降りたり。
警察への不審者通報と保護捕獲の繰り返し。

苦情も重なり母親は自殺した。

 

その数年後、男性はやっと養護施設に入所できた。

父親はその施設の近所に転居した。

 

還暦になった私の同い年の親友の次女も重度の自閉症だ。

奇声をあげたりするけど、女性の体格だから私たちでもパニックになった時に抱きしめて落ち着くまで護れる。
親友はもう体力落ちたけど娘さんだからまだなんとかなる。
でも加齢による体力劣化は容赦なく親友は次女の将来のことを悩んでる。

養護施設は死者が出るまで空きはなく、なかなか入れない。

 

ある映像がTwitterで流れた。

首都圏の鉄道の本線の駅にて男性が線路に侵入し声をあげホームに向かって投石。

関係者らしき女性が線路に飛び降りて男性を抱きしめ落ち着かせようとした。

一瞬落ち着きそうに見えたが男性は女性を強く振り解き線路を走って逃げる。

女性は懸命に追うがなかなか追いつけない。

その動画の投稿者が書いた説明文。
『こいつのせいで電車が止まった😡💢』

それに対して投稿者への批判的な意見も多くついたが、母親らしき女性への批判もそれなりにあり、切なくなった。

投稿者は自分の発言を受け入れられない人がいるのか理解できていなかった。動画が注目を浴びていることを喜んでいるような発言もあり、批判は増えていった。(今は削除され、アカウントも削除したようだ)

 

 

あの女性はやれることを全部やっていると私は思う。

 

私は団地という人口密集地で長く生活をし、親友の子が障害児だったことで、障害児を持つ親たちとの交流の機会も結構あった。

(介護や介助をしているのは主に母親たちだが)

 

精神状態が安定しない子どもとの公共機関を使っての移動はかなり気を使う。

例えば歯医者さんも対応してくれるところは少なくて親友はバスと電車という公共機関を使って通っている。

障害手帳によっては公共の駐車場は無料になるが都会に公共駐車場はあまりない。

自家用車の税金も配慮されているが、自家用車の運転中に我が子がパニックになったら危険だ。

 

 

あの女性はやれることを全てやっていると私は思う。たくさんご自愛してほしい。

 

 

 

 

同じ日、ヤフーニュースで関西のABC放送が密着取材をした母子の記事が流れた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/be8209b44ed904f0b52a0a902790f6be77477aed?source=sns

その中の「『自分が元気なうちに、子どもの終の住処を見つけておきたい』障害のある子を持つ親の切なる願いです。」

が、私の心に刺さった。

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私が幼少時に育った小牧市の東田中に立派な蔵のある家があった。同い年の女の子がいて遊びにいった時に蔵が開いていて中には綺麗な部屋があり、大きなベッドがあった。その家の娘さんとスプリングがきいたベッドの上で飛び跳ね遊んだ。

 

あの頃、たまに奇声をあげながら走り回る男の子を見かけることがあった。

おばあさんが必死に追いかけていた。

追いかける人がいないとき大人が蔵のある家に知らせに行った。あの男の子はあの女の子のお兄さんだった。普段は分厚い壁の蔵の中に彼はいたのだろう。

1960年代の思い出だ。

 

この蔵の少年は成人することなく亡くなられたと、その近所に住んでいた叔母から聞いた。「小さい頃は可愛い子だった」と伯母は言っていた。

酷いことを言うなと今は思う。

 

あの少年のことは長く忘れていた。

数年前に地方の友人宅に長期滞在をして彼女が介護をしているお姑さんと雑談をした時に、その人は厚生省で障害児の今後を長く担当しておられたと知った。

高度成長期にはまた家に閉じ込められている子が多く、その子たちに自立の機会をという立場の部署で全国を周り養護施設の開設や入居を進められたとか。

反対されることも多い仕事だったと話しておられた。

その時あの蔵の少年のことを思い出した。蘇った半世紀前の記憶。蔵の鍵穴から覗くと彼方からも覗いていて目が見えた。今思うと厚い壁と扉、高い窓、少年が外を見れるのはあの鍵穴だった。

あれは少年を守る空間であった。

賛否両論あろう。

 

 

 

その厚生省の仕事をしておられたお姑さんが義父の熊谷登久平の絵の会バリベア会のお弟子さんの部下だったとのちに気づいた。

残念ながら友人もお姑さんも亡くなられた。もっと話しを聞いていれば良かったと後悔している。

 

 

障害児、小牧原駅から離れていた東田中の神社の横の雑木林を抜ける小道の奥に平屋建ての素敵な家があり芝生の庭があった。

そこにはカワタ君がいて、思春期に気がついたが彼はダウン症だった。

その家には高価な玩具があり、電動の子ども用自動車が楽しかったので強く記憶に残っている。芝生の庭はよく手入れされていて縁側から裸足で降りて遊んでも良いようになっていた。

 

カワタ君とは同じ幼稚園だったが彼は一学年下のクラスだった。彼は素直でまた幼さがあり人気ものだった。ウルトラセブンの歌の出だしを良く口ずさんでいた。

 

小学生に上がり、彼が同じ一年生だと知った。

特別学級に入っていた。

そして彼は突然転校した。親たちの噂だと東京に良い学校があると知り転居したとのことだった。

綺麗なお母様だった。

雑木林を抜けるとある芝生の庭の平屋。

 

その近くに牛乳屋があり、そこの主人のオート三輪に私は轢き逃げされたことがある。

その裏手にノダさんという家族が住んでいた。私はダがうまく発音できず「ノラ」さんと呼んでいた。母の友人宅だった。

そこの下の息子さんは今でいう発達障害だったのだろう、乱暴な子だった。

ノラさんの息子さん小学校ではカワタ君と同じ特別学級に属していた。そのクラスは全学年が一教室だった。息子さんは私より5歳上だったが、近所の幼稚園や低学年を子分にして遊んでいた。

私が小学校で彼に怪我をさせられた時に、お母さんが随分と謝ってこられたのを覚えている。

彼は家庭に配られた牛乳を飲んでしまう子としても知られていた。

その謝罪が大変だけど息子はやめてくれないと母に嘆いていたのを覚えている。

牛乳屋さんで息子が飲みたいと言えばツケで飲めるように頼んでいたが、彼は目についたものを飲んでしまう。両親がどんなに注意しても怒ってもなおらない。

 

 

 

 

今の若者たちの一部、妊娠出産を遺伝子ガチャと呼ぶそうだが、子を授かったあとの「製造責任」的な考え方が、あの動画へのコメントに溢れていて「自己責任」という考え方が制御できなくなってきたのではないかと、「公民」で憲法を習ってないのではと。

遺伝子ガチャという言葉は息子夫婦に聞いた。

気になり検索をしてみたらあった。

https://dime.jp/genre/1507734/

 

切ない。

 

 

 

 



 

 

 

 

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