熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

若年性認知症

母の兄が若年性認知症になり、元々関白亭主だったが50代早々話しが噛み合わなくなりしつこくなり、曽祖父の代から役職についていた会社を早期退職となり、唐突に行方不明になるようになり、警察が連れ帰ってきた時には裸だったり。

言葉が話せなくなり、歩き方も忘れて寝たきりになった時に在宅介護をしていた叔母と従姉妹はホッとしたと言った。

その妹の母も早いうちから認知症の症状が後から思うと出ていたが、加齢だと思い、つか認知症とは思いたくなく、気がついた時には迷子になる人となっていた、会話も噛み合わなくなり、私の子育てが一段落したら一緒に旅行ねと話していたのも失われた夢だ。

 

在宅介護、私は両親を30代40代で亡くしたので、まだ体力があった時なのと申し訳ないが我が子にも手伝ってもらえて母の時は助かった。

 

50代となり友人たちが在宅介護に突入していき、介護卒業後に倒れて逝ったのも何人かいる。大好きな親友は免疫異常を起こして寝込むようになった。

国体に出るような健康な女性だったのに。

そういえば私も気がついたら入院していたことあったわ。

 

あと、私の元家庭もだが、在宅介護で旦那さんの世話をできなくなり旦那さんが外に若い女性を作って新たな家庭を夢見て色々あったケースもある。

 

某日、同世代の女性たちと話していて、認知症が周りにいた人は自分はぽっくり逝きたい的な気持ちを皆持っていた。

 

それと、知り合いの関係で今行方不明になったままの私より若い女性もいると知った。

 

https://www.yomiuri.co.jp/national/20231101-OYT1T50201/

『若年性認知症の女性、3か月前の早朝に自宅出たまま行方不明に…夫は目撃情報を頼りに「生きて会えると信じる」
2023/11/03 06:44/読売新聞』

 

私の母に関しては住宅密集地で、また母は知り合いも多かったのが幸いして迷子になっても人が連れてきてくれたり、私が見つけることができたりした。

でも住宅地であっても母の知り合いの旦那さんは、ある寒い日に遺体で見つかった。

人が出歩かない時間帯だった。

住んでいた足立区の防災無線では迷子高齢者に関するお願い放送をしない。

住んでいた団地の隣接の川口市では防災無線で行方不明になった高齢者のお願い放送が良くあり、羨ましいと思っていたことがある。し、議員さんに訴えたこともある。

 

そういえば、母が亡くなって実家の片付けが終わった翌月に東日本大震災があった。計画停電も始まり、母が亡くなっていて良かったと思ってしまった。母が存命だと説明が大変だったと思った。そう感じたことに罪悪感もあるが、本音だ。

 

今、能登半島が大変で、阪神淡路の時も大動脈だった国道2号が分断され、海路も荒れ、支援物資と救助がなかなか入らなかったと現地にいた父から聞いているが、能登半島も交通網が分断されて津波もあったから神戸の港より復旧は大変だろうと思って見ている。

あの中で在宅介護をされている家庭や乳幼児や人の手を必要とされている人たちは今しんどかろうと思う。

 

とか思考回路ぐるぐるしている。

 

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