午前、担当看護師さんから電話で現状確認。
先週は入院もありえた状態だったと改めて聞く。確かにとてもしんどかった。失敗も多くやり精神的にも辛かった。
今は落ち着いているが、ドアを開ける時に反動で仰向けに倒れそうになる。
前回は冷蔵庫のドアを開ける反動でつかまれずに倒れたが、今回は夫がいる部屋だったのとドアノブを高齢者向けに変えてあったので掴んだままでいられて夫が間に合った。
数年前、夏の暑い日に納屋で一人で死にかけていた友人は辛かったろうな。発見されて数日後に入院先で亡くなった。
彼女の命日が近いので先日彼女が好きだった実は足立区に工場がある青山を名乗るシガールを送った。私はシガールを足立区のお菓子だと彼女へのお土産にしていた。神楽坂のペコちゃん焼きも喜んでくれたっけ。ネタとして買っていった当時は新参土産だった東京バナナも美味しいと喜んでくれた。
世の中は彼女が好きだったもので溢れているのに、供えることしかもうできない。
彼女が大好きだと言ってくれた根津の芋甚の餡蜜を一緒に食べることはもうできない。
彼女は40代で第二子を授かり、その子のためにもと健康寿命をと食事制限を頑張り、良く歩き、糖質も控えて大判焼きを我慢したとか言っていたのに年金をもらう前に60歳で死んでしまった。
彼女は実家の墓に入ったので、あの地域の独特のお盆の賑やかな飾りの中でシガールを食べてくれるだろうか。
暑い納屋で一人ではなく、大好きな家族と。彼女はお父様が大好きだったから、お父様より少し後に墓に入ったのでそれは良かったのだろうか。
山あいの昔ながらの家の墓地。落武者の墓も何故か敷地内にあった。
彼女が亡くなる、その数日前に何故か彼女が私の夢枕に立って泣いていた。
あの時電話をしたら彼女の不調がわかったのだろうかと、後悔している。くだらない喧嘩をして私は拗ねていた。
出会った15歳の時のまま私は彼女に甘えてきた。
さみしい。
以前から気になっていた佐藤龍雄という画家がいる。
熊谷登久平の次男である夫曰く、ドケチな登久平が昭和16年に遺作集を編纂出版した気仙沼出身の画家である。この16年に義父は画集でもある熊谷登久平繪と文を出している。同じ月に同じ出版社で出している。
昔、気仙沼図書館に佐藤龍雄の絵があったとの話しを何かで読んだか聞いたかだが、東日本大震災で義父も含めて有名でない画家の作品はお蔵入りしてしまった。義父の絵はお陰様でリアス・アーク美術館に収蔵されたが、そうでないお蔵入りのまま死蔵となる作品もあるかもしれない。
この佐藤龍雄画伯も、ずっと気になっていたので、少しずつ、義父のついでに調べていてある程度資料が纏まったので、気仙沼のリアス・アーク美術館にといあわせをしてみた。
リアス・アーク美術館で調べていただいたところ、気仙沼図書館にあった『 鮪立風景』は無事リアス・アーク美術館に収蔵されており、もう一作代表作品と名が残る『気仙沼湾風景』は画集で観ることができる。
横浜にアトリエがあった方なので、多くの作品が空襲で失われてしまったのかも知れない。
白日会の資料を調べていく過程で何か見つかるかもしれない。
かもしれないばかりだけど、かもしれない。
義父たちが出版した佐藤龍雄の遺作集は国会図書館のデジタルアーカイブで見ることができる。
残念ながら古いタイプのアーカイブ化の白黒フィルムに入れてからのデジタル化だと思われるタイプで、画集の資料としては悲しくなる状態だ。でもあるだけ良い。
本来なら我が家にもあるはずだが、義父が亡くなった後に義父の伊万里コレクションや他の画家の作品、書籍類を義父と約束していたと持っていく人が次々と訪れてお弟子さんたちが気がついた時には手遅れとなっていたときく。
書籍ではやはり義父の画仲間で谷中清水町生まれ育ちの野口良一呂の遺作集も持ち出されたようで、偶然義父の書き文字が背表紙にあり、表紙裏に遺族から熊谷登久平宛てのメッセージがあるものを古本屋で見つけて買い戻せた。
なんという偶然。
その本は無縁寺心澄が主な編纂者で、無縁寺画伯については千葉市の美術館が熱心に調べておりそちらへの情報提供にも役だった。戦前戦中はまだ遺作集が出せる時代で、空襲が激化し敗戦後に亡くなった無縁寺心澄画伯の遺作集は出されていない。
佐藤龍雄画伯だが、気仙沼市の資料によると昭和10年3月29日から3日間、義父も個展を開いた場である元丸井百貨店で個展を開催している。
気仙沼の地元新聞だった大気新聞を調べれば情報があるかも。
大気新聞のバックナンバーは気仙沼図書館に行かないと見れないので、機会があればと思う。
そして、義父が大好きだったというウニとホヤを食べる。
不整脈の薬が効きますように。
気仙沼湾風景↓(多分)
『佐藤龍雄君の藝術
獨立美術協会会員 熊谷登久平
佐藤君は宮城県気仙沼に生れました。
宮城師範學校なでるとまもなく三陸沿岸の海と岩との風景に、心うたれて彼の多感な人生を絵画のみちにもとめて居つたのでした。
そして間もなく、上野美術館に開催せられる白日会展覽會に入選し、翌年は白日会賞を授賞せられて一躍 同輩を凌いで、画壇の寵児となりました。
彼はその頃より深く人生と、藝術に就ての煩図をふかめて、そして東北の僻地での勉風をたって、一層画業の勉学に適する中央画壇に接觸する横浜に居をかまへ、平沼小学校に教鞭をとつて、彼の第二期の精進がみるも痛ましいままでつけられたのでした。
学校にあつては、初等科兒童の絵の指導にあたり、家にあっては若葉兒童画会を開設して、家庭に帰った兒童の情操教育についての絵の指導に専念して数百の児童を教えておりました。
日曜日の朝多くの子供にとりまかれて、野毛山、小湊と多摩川に寫生にゆく佐藤君は実に北欧の教育者アンダルゼンの如く美しいものでありました。
横濱に於ける努力がむくいられて白日会とは無審査友に推され、獨立美術協会展覧会には入選を重ね、横浜白虹舎には同人に推されて、彼の絵技はいよいよ光揮をましてきたのでした。
そして昨年の満蒙の旅を君はむかったのです。 朝鮮、新京、ハルピン、ソ満国境、彼は今日あることを知つてゐたごとく腕も、身も、骨もわれる程描きまくつて帰京したのです。
そして三十三年の彼の生涯をたってしまいました、三人の可愛い子供と、生涯をぶっこんだ多くの絵を残しただけで。
彼の絵技は若かったかも知れない。しかし彼の絵は人が五十歳をしても、まだなし得ない一つの悟人の境があると、私はいふのです。』
↓気仙沼での熊谷登久平と仲間たち。
↓気仙沼での熊谷登久平展の写真。佐藤龍雄画伯の個展もここで開催されている。
↓隠れている猫。