気仙沼図書館に長らく展示されていたという熊谷登久平の『漁撈船』
登久平は描いた時のこと、その後気仙沼市の船主に差し上げることになった経緯を随筆に残している。
残念ながら現物は東日本大震災で傷み気仙沼教育委員会の倉庫に眠る。
義父が思い入れを持っていた作品なので見る機会があればと願っている。
その登久平の随筆を気仙沼出身の方に送ったところ、面白い話が届きました。
義父が書いてる「官留」は「菅留」(カントメ)。
昭和4年11月23日、千年丸(35トン、75馬力)出港消息を絶つ、階上船員ら13名遭難。
義父の回想だと夏だ。
夏から3ヶ月後に夜行で気仙沼の人にあい描いた漁船が帰らないと聞いている。
気仙沼の人たちは船の捜索の陳情に東京に出ている。
その時の時系列、義父の勘違いか?
この絵を大気新聞社長の佐藤文雄氏は自伝の中で二科展に入選した作品と書いている。
該当する二科は1929年9月3日から10月4日までの第16回展。義父は『海』『落日』という作品を出している。
前年に入選したのは一関市の義父の従弟が持っている『気仙沼風景』と『赤松と水車小屋』
二科展に入選した作品の中で詳細と行方不明なのは『海』だけなので、気仙沼図書館にあった漁撈船は『海』じゃないかな。
だといいな。
昔、『長谷川利行と2人展』
長谷川利行と熊谷登久平と矢野文夫の一関博物館の展覧会の図録に熊谷登久平の『海』という作品が載っているがこれはタバコの箱の裏に描かれている。とても小さい。
一関で展示されたのは二科に出した『海』ではないだろう。
夏、本家からの勘当がとけて高等遊民となっていた義父が時間がないとイライラしながら描いた漁船の絵。その年の二科展への持ち込み期限で焦っていたのではないと。
もう当時を知るものがいない。
だから残されたもので考えるしかないのだけど、私にはとても難しい。
『繪師にとつて、一まいの小さな作品でも、わたくしには、その折々の生命であり、生活であり、その日その日の記録であり、日記帖である。
ある年の夏の蒸しかくすような午後わたくしは漁船を描こうとして、大平洋に面した町に宿つて、二十日も立つていた。その日も朝から海岸にでて、出入の多くの船をさがしてみたが、モチフになるような船は、一艘もはいつてこなかった。
もう東京に帰らなければならない日が近づいてゐるので、神に見はなされたような思ひに、いらいらしてゐるとき、 おほいかぶらるやうな夏山のいきりに、ダンダンダンと木穂して入ってくる白い線の隅どりをして、右に傾いて、いまにも沈みさうな、断末魔のようなあせりを感じさせる船が、ほんの少し水に横腹をのぞかせて突入してた。』
この絵は二科に入選したと書くものもあるが、どうなんだろう。
気仙沼で開かれた熊谷登久平展で展示されたのは確かなようである。