熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#熊谷伊助と勝海舟 のこと

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夫の記憶で、義父熊谷登久平は熊谷伊助の墓参りに千葉県に行っていたそうだ。

この墓参りは多分夫の記憶違い。

義父が書いた随筆には、勝海舟が伊助を偲んだ歌を刻んだ石碑を先先代が千葉県行徳町自性院境内に建てたと書いてある。

この書籍は昭和16年に発行されている。

 

私は今夏に一関市に吸収された千厩の図書館と博物館に熊谷家の資料を読みに行くつもりだ。

 

不愉快に思われる方もいるとは思うが、私は熟年になってから熊谷登久平の次男に求婚された。

彼には見合いたまにきてるし、私は子が生める女性との結婚を勧めた。

だが、私が良いと彼が言ってくれたので結婚し、熊谷姓となったが東京の美術界では忘れられている画家熊谷登久平の血は残せない。

熊谷の名は私の娘が継いでいるが、人は死んでも名を残すという言葉が好きな私は熊谷登久平の名を残したいし、長谷川利行の伝記などで記述が異なる義父の経歴も今のうちに調べられるなら調べたい。

 

私を選んでくれた夫の生誕の記録にも繋がるし、登久平を支えた女性二人の不思議な関係も女性史の一つとして残したい。

ので色々と調べては壁に当たっている。

 

まあ、同人誌を作って国会図書館に納めれば何百年ののちとかに運が良ければ酔狂な人が熊谷登久平の作品を再発見してくれて、資料の一冊にしてくれて、モデル女性も調べてくれたらとかドリームは持っている。

 

昔、小学生低学年だった息子がハマったゲームに、クロノ・トリガーだったか、ドラゴンクエストだったか、村人を救うために怪物と戦った牧師だか神父の悲劇と偉業を永遠に残すために石碑が建てられるエピソードがあった。

ところが主人公たちが未来に行くと石碑の文書が書き換えられている。

村人の子孫たちが自分たちの先祖に都合が悪い部分を書き換えたのだ。ってな話のうろ覚えで、ピュアな息子はショックを受けていた。

 

それ、実はまああるよなと郷土博物館で歴史調査員をしていたスレた私は思っていたりしました。

 

で、横浜開港と横浜の発展に尽くし、勝海舟の長男の留学費用を出したり、ペリーとも付き合いがありながら、亡くなった熊谷伊助さんの兄弟は石碑を千葉県行徳町に建立したわけですよ。

 

勝海舟が死を惜しみ泣いたと伝わる伊助さんですもの。

石碑で永劫に伝えたいと肉親は思うでしょう。

 

その石碑も見ておきたいものだと私はインターネットで検索をしたわけです。

 

石碑 行徳 勝海舟 でヒットしましたよ。

そしたら自性院境内の石碑の写真と説明文の立て札が出てきました。

勝海舟が惚れた女の死を悼み建てた碑」的な説明文ですよ。

拡大して何回も見直しましたが、そんな感じ。

f:id:TokuheiKumagai:20190616224544j:imagehttp://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/kuhikahi16.html

 

上の市のサイトには説明文は無いですが、寺のサイトには、

https://www.e-ohaka.com/sp/detail/id1263879502-783521.html

以下引用。

 

勝海舟自筆の碑文

●明るく、整備のゆき届いた墓域

【由来・いわれ】
真言宗豊山派、本尊は大日如来
天正十六年(1588年)、法仙法師により開基。
行徳の総鎮守であった神明(豊受)神社の別当寺であった。
【歳時・みどころ】
勝海舟自筆の碑

「よき友の消へしと聞くぞ、我この方心いたむるひとつなりたり」

勝海舟邸に奉公に上がり、海舟に愛された娘が亡くなり、その死を
悼んで自筆の歌をよんだものを碑に刻んでいる。

 

以上引用終わり。

 

と、書いてある。

伊助の碑じゃないのか?

 

「熊谷登久平の経歴の東京航空計器の副社長だった」も、東京航空計器株式会社の秘書課から「記録がない」と言われているが、今度は登久平が書いた伊助についての随筆の内容を否定する説明文を寺が出している。

 

おかしくないか?

一応古い勝海舟の記録にも伊助を偲んだ碑ってのもあるよ。

 

大田区勝海舟記念館を創立するのは今年の後半だが、そこが開いてから私は資料を漁らないといけないのか?

 

悩みます。

寺に行ってみますかねえ。

 

https://www.travel.smileandhappiness.net/jishoin-gyotoku.html

 

 

下は不動産屋さんのサイトで伊助を偲んだと紹介されている。

https://plaza.rakuten.co.jp/isichikawa/diary/201401300000/?scid=wi_blg_amp_diary_next

 

義父の曾祖父の甥のお孫さん?が伊助ゆかりの双眼鏡を横浜に寄付している。

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/104/06.html

 

私と同じ疑問を持った方がいるようだ。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188524

 

以下、市川市立図書館のレファレンスより。

 

本行徳1丁目の自性院にある勝海舟の歌碑「よき友の消えしと聞くぞ我この方心いたむるひとりなりたり」について、案内板には「行徳から奉公に上がった娘を悼んだ歌」とあるが、熊谷伊助の追悼歌という説もある。どちらが正しいのか。
回答
(Answer)
自性院は行徳観音霊場第4番札所。
境内の案内板には「勝海舟邸に奉公に上がり、海舟に愛された娘が亡くなり、その死を悼んで自筆(?)の歌をよんだものを碑に刻んでいる。」とあり。
「行徳てらまち会」への照会によると、案内板は平成17年の市への「景観まちづくり」提言書を受け、順次、市川市都市計画課により設置されたもので、各寺社の案内板の内容は、その寺社に一任して作られたとのこと。
『観音札所のあるまち行徳・浦安』(中津攸子/文,石井久雄/写真 中山書房仏書林 1984)p.32-33に、「秋本久兵衛の娘が勝海舟の邸に奉公に上がり、海舟に愛されたらしい。(中略)お宿下りをし、亡くなった。(中略)その死を聞いて勝海舟が自筆の歌を送ってきたのを碑に刻んである。」とある。

ただし、以下の資料では、熊谷(松屋)伊助追悼歌説が採用されている。
勝海舟全集 別巻来簡と資料』(勝海舟/著,勝海舟全集刊行会/編 講談社 1994)p.832には、「松屋伊助追悼歌碑」として紹介。『幕末の市川:企画展図録』(市立市川歴史博物館 2003)p.44でも、「勝が、「よき友」熊谷伊助の死を悼んで建てたもの。「日記」の中には、「松屋伊助」と記されている。伊助は、陸奥国松沢(現岩手県千厩(せんまや)町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来する。(中略)伊助は、奉公した江戸の酒屋の縁で行徳出身の妻と結婚したと言われている。」との掲載あり。
『市川の文学 詩歌編』(「市川の文学」調査研究会/編集 市川市文学プラザ 2011)p.135でも、「伊助の追悼歌」説を採用している。

以上より、史実としては、伊助を追悼した歌であるが、案内板は、地元での俗説を紹介したものとして捉えられるといえる。