熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

探していた東京大空襲の記録本を頂戴した。谷根千のザクロのテイクアウト。

バブル期に東京はバンバン再開発されて、空襲の記憶を残す地蔵や記念碑、戦跡などが消えていく可能性があり、それらを調査している人たちがいた。
私も何回かお会いしているが当時の私は戦後17年後に生まれた20代の若年層。
私は東京大空襲B-29墜落地点などを調べる側にまわっており、空襲被害者の記録も読んではいたけれど、記念碑を調べるのは東京空襲を経験した方々が中心だった。
その方々は自腹で次々と資料を集め、空襲の形が浮き上がって行った。

私も彼らが纏めた空襲関連の地図と書籍をかなり持っていたが離婚や在宅介護の絶望感で三度の引っ越しのたびに、資料を手放していった。
介護離職で疲れていて、認知症となった母を見守る日々だった。
ものを調べる気力が私に戻るとは思っていなかったし。
母が死んだら私は介護鬱が悪化してしまったし。ほぼ引きこもりになりネットで人と話していた。

それが、今の夫とネット上で知り合い介護ロスや猫やアニオタ話など合う話が多く、ふと気がついたら昔の知り合いで、共通の知り合い沢山。
なんだかんだと再婚し、地方在住時に憧れていた上野の山に住んだ。

その今住んでいる上野の山の谷中の家の裏の墓地に墨田区の江東橋一丁目の東京大空襲の惨事を伝える慰霊碑がある。
碑の存在を教えてくれた夫は義父に来歴を聞いて育っていて、あるのは当たり前のように受け入れていた。
しかし、私は、私の記憶の中にない立派な碑に驚いた。戦後50年の頃に私的な慰霊碑も含めて調べて出来上がった地図を見ていた。
(記憶があった。)

残念ながら、先日指摘されたが、私は事実誤認だらけで、知らないことについては知識がなく、俯瞰ができてない。
なので、裏の石碑が記録から漏れているかどうかを調べることから始めた。台東区の記録には多分ない。総務省が纏めた資料にも記録がない。
墨田区にも記録がない。
担当学芸員さんもご存知なかった。
早乙女勝元先生にも確かめたが、ご存知ない。

あとは、戦後50年の頃に編纂された持っていた覚えの書籍と地図だが、題名思い出せない、あの人たちへの連絡先も残っていない。

空襲資料を多く集めている墨田区でも随分調べたし、錦糸町にも通ったけど碑のいわれを知る人には会えなかった。関係者らしき人にはたどり着いたが、入退院を繰り返しておられて取材できる状態ではなかった。

が、あの本、空襲を記録する石碑などを調べた本の編纂者の1人がうちの顧客だった。
30年も経てば互いに見た目も違う。
店においでになられた時に雑談していたらご本人だった。私が東京大空襲を調べ始めた頃に御指導くださり、取材をご一緒した早乙女勝元先生が谷中に住みたいと土地探しを頼み一緒に歩いた方が我が家の顧客さんだった。


本日、その方から私が手離してしまっていた本を新たに頂戴できた。

擦り切れている私の記憶通り、この本の地図からもうらの慰霊碑はもれていた。
建立した当人たちはすでになく、子どもだった方が高齢で入退院を繰り返しているためにオーラルヒストリーを私が聞き書きすることは叶わないが、記録がないことをある程度確認できた。
図書館や資料室がコロナで閉じているか、制限がある中、戦争記録本を全て読むの、私には不可能だ。
不思議なご縁に感謝です。



谷中あちこちの紫陽花が綺麗に咲いている。
昼は義父が世話になっていた佛雲堂さんに、雑誌執筆のご報告に行き、息子さんの店舗でランチを食べた。
昨日一昨日と混んでいると聞いていた谷中の図書館が少し落ち着いたと聞き出かけたが、しばらくは5時で閉館とのこと。

夫に頼まれて、谷中銀座手前の日本一ウザい店長アリさんの店、ザクロのチキンをテイクアウト。
ザクロ、雑貨を現金収入のために大幅に値下げして売っているのが知れて、混んでいた。