熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

早乙女勝元先生の訃報

早乙女勝元先生の訃報が流れた。

先生とは1992年、足立区の舎人図書館で非常勤をしていた時に出会った。

先生は『ベトナム“200万人”餓死の記録―1945年日本占領下で』の執筆準備中で戦時下の日本国内の外米のことを調べようとされていたので、私は戦時中の日記を方々の図書館に求めてざっと軽く読み、外米の記述があるものをピックアップして栞をはさみお渡しした。

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この本の後書きに私の名、仲村明子がある。

 

これをきっかけに先生と雑談を交わすようになり、私は当時調べていた足立区舎人から入谷におちたB-29について先生に質問をしたところ面白がり、私に東京大空襲の記録5巻揃いを買ってくださり、また国会図書館の憲政資料室への紹介状も書いてくださった。

そして読売新聞の記者の斉藤さんに連絡をしてくださり、それまでコツコツと聞き取りをしていたことが読売新聞の記事になった。

それが縁で星条旗新聞や朝日イブニングの記者と繋がり、星条旗新聞のベテラン記者によって書かれた記事と読売新聞の英字版デイリー読売、朝日イブニングの記事と手紙を同封して、アメリカンセンターで調べたB-29の戦友会に片っ端から送り、一番最初に届いた手紙がロイハップ・ハロランからのものだった。

ハロランは捕虜として東京大空襲を経験し、上野動物園の虎のオリに全裸入れられた。

 

このハロランのことは私も記事にしたが、早乙女先生も一冊の本に纏めておられる。

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この本の中にも私は出ていて、離婚後なので早乙女先生は私のことをNさんと書いておられる。

また私との出会いのエピソードも書いてある。

 

この本を出すための資料も私は提供したが、打ち合わせ場所は竹の塚西口にあったエリカという喫茶店だった。

ここで定時制高校生だった娘がウエイトレスのバイトをしていて常連だった早乙女先生に挨拶をしたところ、幼女だった娘が大きくなったと驚かれたそうだ。

 

 

 

 

プロ作家になることをすすめてくださったのも早乙女先生だった。

明智抄さんと早乙女先生が応援してくださり、先生の取材に同行させていただく中でノンフィクションのノウハウを学ばせてくださったし、エッセイで賞を得たときとても喜んでくださった。

 

 

お庭にはアンネフランクのバラが咲き、その花束を頂いたこともある。

奥様が緑の指を持ち、挿木から増やしたアンネの薔薇だった。

 

仲の良いご夫妻だった。

 

先生は今頃天国で奥様のいれたお茶を飲んでおられるだろうか。

奥様のいれてくださるお茶は美味しかった。

あといれかたも綺麗だった。

 

最後にお会いしたのは2019年の秋だった。

アメリカ人の研究者さんから早乙女先生に会いたいと連絡があり間に入って調整し、足立区舎人の華屋与兵衛でお話しした。

最後に話したのは去年の3月10日ごろだったか。

東京新聞の下町支局の取材を受けて我が家の裏の東京大空襲慰霊碑のことを話したことなど。

また早乙女先生は谷中に住みたくて真島町などで土地を探された。

その時一緒に周ったのは台東区共産党区議の茂木さんだったそうだ。

その茂木さんは東京大空襲の慰霊碑の調査をされていたグループの1人であったが、我が家の裏の慰霊碑は調査にもれていた。

茂木さんは我が家のお客さまでもあるので東京大空襲の慰霊碑調査の時の話や、早乙女先生宅での思い出なども話し、それをまた早乙女先生に話すと懐かしまれていたが、もうコロナ禍で落ち着いたら会う話しのまま、訃報が流れた。

 

戦記雑誌の丸から連載の話しを頂いた時に先生に相談をしたら東京大空襲を記録する会と丸は良い関係だった話しをしてくださり、受けなさいと言ってくださった。

丸の編集さんと竹ノ塚のエリカでお会いしたこともある。

記事に残すことの大事さを沢山教えてくださった。ありがとうございます。

 

 

ご冥福をお祈りいたします。