熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

関東大震災、日本橋浜町の人助け橋の記録。

熊谷登久平は中央大学時代に関東大震災を経験している。
それが神田錦町にあった中央大学の学び舎(夏休み中)か、川端画学校か日本橋浜町の下宿先かはわからないが、下宿先がある程度焼けたのは、川端画学校の仲間の海老原喜之助の自画像が熊谷登久平宅で焼け残ったエピソードで知ることができる。

被災したのが浜町の下宿であれば、混乱が起こっていない場所で、神田の錦町の中央大学であれば大変だったと思う。
川端画学校に居たのなら建物は震災には持ったので大丈夫だろう。
義父は震災の混乱の中どこをどう逃げたのかな。


義母は8月末に浅草で生まれて(戸籍が焼けているので7月生まれ説もあるけど)すぐに関東大震災の炎の中を背負われて逃げ惑うことになる。
この時、浅草寺に逃げ込んだものは助かる。
浅草にも幕府が作った火除け地が多くあったが。

(義父、盛岡市のホームページで川端画学校時代に海老原喜之助さんと橋本八百二さんと一緒に絵を学んでいた一人だけと、置いてきぼりされてますけどね。)


http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_ishibumi/tokyo_cyuou/cyuuou2.htm

http://www.city.morioka.iwate.jp/kosodate/gakushu/art/kengai/ebiharakinosuke/1003491.html

https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-214.pdf

http://tokyochuo.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E6%B5%9C%E7%94%BA/%E9%9C%87%E7%81%BD%E9%81%BF%E9%9B%A3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%A2%91%EF%BC%88%E6%96%B0%E5%A4%A7%E6%A9%8B%EF%BC%89

<避難記念>

貴族院議員正四位伯爵有馬頼寧 篆額

嗚呼想ひ起すも肌に粟を生するを覺ゆるは大震火災の状況なり時は大正十二年九月一日所は新大橋の上難を避くる數萬の大衆の九死に一生を保ち得たるは實に神人一致の力と申すべきか此の時橋の兩側より狂ひに狂ひ燃えに燃え來る紅蓮の舌は毒焔を吐きつつ刻一刻と橋上に迫る退くも火進むも火身を躍らして河に投ぜむか滔々たる濁流は一氣に呑み去らむのみ進退維れ谷り號叫の聲天に漲り慘状目も當てられす此の時大衆は橋上に御遷座あらせられたる水天宮及小網稻荷神社 玄冶店 橘神社の御靈代を伏し拝み神助を熱禱したり又警官在郷軍人其他有志の人々は火を導く恐ある荷物を悉く河中に投せしむ中には貴重の物とて泣きて拒みしも萬人の生命には替へ難しとて敏捷果斷なる動作は寔に時宜を得たる處置なりき漸く人享を盡し神助を待ちたるに夜も明け火も鎮まりて大衆は始めて我に還り知るも知らぬも再生の思をなして喜び合ひたり且つ五大橋中此の橋のみ災害を免れ得たるは正に神助と人の力となりけり其後法木徳兵衛主唱し森田恒一加藤肆郎庄野又兵衛之に賛して發起者となり此の橋上にて免れたる人々相集り大震火災新大橋避難記念會を組織し毎歳當日を期して水天宮に報賽の祭典を行ひ同橋上に集りて當時を追憶し來る乃ち本年は満十回に當るを以て思出深き新大橋西側の一隅に碑を建て事を叙して之を永久に記念となす

 昭和八年九月二日
   水天宮社掌 樋口悌次郎撰
   荷葉山岸惣書

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_ishibumi/tokyo_cyuou/cyuuou2.htm
関東大震災の跡と傷を訪ねて