熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

色々あります。

画家時代の熊谷登久平と飲んだことがある画家さんに初めて会えることになったので歓喜の舞の踊りつつ、恐れ多い状態。
夫の話では、その方は当時は義父が可愛がっていた大学生さんなんだけど、今では大物で慌ててワンピースと靴を買った。

っても安物で、バッグをコーチにしてとか思ったけど、パソコンを持ち歩くコーチなのでフェミニンではない。

その画家さんの藝大教授時代、うちのアパートに住んでいたファンの子たちは義父の名を出したら既に重鎮となっていた先生に会ってもらえたそうだ。

その先生が書いた独立美術協会の80周年史の過去の話の中に、熊谷登久平が独立美術協会展に初回から参加しているのに会友のままで会員になれないことに焦れて短刀を突き立てて会員にしろと迫ったとかなエピソードがある。

昔の洋画家たちは若く血気盛んで、会を作ったと思ったら離れたり取っ組み合いの喧嘩をしたりしていた。

戦前の1930年協会が発展してできた独立美術協会は二科展に反発してできた。二科展も国の展覧会からの分裂。
義父は二科展でも入選しているが白日会でも入選している。そして1930年協会展には里見勝蔵先生との出会いが縁で参加して独立美術協会にも参加した。
義父は里見勝蔵先生を慕っていたようで、実家に里見先生の絵を疎開させている。
その里見先生を排する動きが独立美術協会に起こり、里見派だった義父は中が緋色のドテラを着て、反里見派の会合に乗り込み。
(このドテラは多分中央大学応援団長の熊公時代ので、慶應大学応援団と喧嘩をして勝った時のだと思われる。)
部屋の真ん中にデンと寝転がって大の字になり、「さあ刺せ」と言ったとかが書かれている本もあるので、この辺が伝言ゲームで「自分を正会員にしろと」刃物を持ち出したになったのかなあと。
電話で先生が80周年史に独立美術協会の会員にしろと刃物を畳みに刺したと書いたことのソースをお伺いしたけど、「熊谷先生はそういうことをする人ではない」とのことで謎である。
編集過程で略しすぎてなったのかもしれない。






娘、なか卯でのグラブルコラボ最終日と気がつき、今夜のご飯は急遽なか卯になった。