熱38.5度で書いてるので、いつもより増して乱文散文してます。
一行で書くと、
東京に住めて良かったと感じているお上りさんです。
今の家は上野公園に近く、公園内の美術館、博物館、動物園、藝大の展示室、文化会館が徒歩圏内という、地方出身者からしたら天国のような環境です。
夫の生家で、夫の家ですが結婚したら棚からぼた餅のように東京の利便性を味わえる山手内側の数駅が十分かからない、上野駅も歩いて15分程度という環境で、新国立美術館も千代田線の根津駅に5分ほど歩いて乃木坂駅で降りたらすぐにという生活環境をゲットしました。
残念ながら今は身体を壊しているので、都内を飛び回れませんが上野公園の美術館は体調が良い日にハシゴをして楽しんでます。
今日も発熱していて、坂を下ればやっている水玉祭りに行けなくて悲しいけど、徒歩圏内に四軒もミシュランの安い方の店があるのも幸せです。
1500円でミシュランよ。
自転車で行ける三ノ輪にはTOKIOがラーメンスープの修行をしたミシュランラーメン店があるし。
私が地方に住んでいて憧れた東京そのものがここ谷中にはあります。
つか憧れた場所に日帰りで行ける段階で、足立区でも幸せだったんですけど、谷中はもっと便利で、手術や入院を繰り返した体と足腰の弱った今の私には住みやすくて天国です。
大学病院近いので足立区時代は心肺停止で大学病院に到着していたのが、谷中では具合悪いと診療所に行ったら即紹介状を書いてもらえてタクシーワンメーターちょっとで大学病院です。
診療所で即血液検査をしてくれるんですよ。
足立区舎人にはないです。
昔はあったけど医療制度の変更で設備なくなりました。
東京に住んで、父が癌になった時に明石に帰らなくて良かったと今は思います。
当時は自分を責めましたが、父の死はB-29墜落地点で起きた米兵の斬首事件、戦後日本初の戦犯死刑となった茂原事件の取材時に携帯電話で聞き、取材を続けていました。
仕事でしたから。
二十歳の時、足立区十四中と明石市立魚住中学生の教育格差を知り、八歳年下の弟を東京の教育を受けさせるために引き取りました。
父に似て顔が良かったのでモテモテでしたよ弟。
性格も明るいので、友人も多くできて、奥さんと結婚するまでで彼女いない歴が一番長くて三ヶ月という弟ですよ。
小学生時代から彼女がいたので、あれは父親似でしょう。
短距離とかは明石大会で上位か一位で小学生では常に一番。
絵も入賞する。
頭も適当に良い。
あれは典型的なモテるタイプでした。
母が溺愛をしていました。まあ名古屋人の長男ですからね。
で、明石では惜しいと思い東京で義務教育からと。中学だけですが。
また、自分が東京で仕事をしたいので、母も呼び寄せ母は看取りましたが、名古屋の栄えていた場所が徒歩圏内の寺町で育った元お嬢様母は映画や芝居などを楽しめる東京生活を満喫していました。
社交的だった母は舎人団地に住む都心を焼け出された同世代の女性たちと仲良くなり、友人も明石時代より多かったです。
気楽に宝塚には通えなくなりましたが、東京の宝塚劇場はたまにチケット取れて行けてたし、歌舞伎も通えたし、玉三郎も何回も行ったし、私親孝行しましたよね。
付き合いでもらえた芝居のチケットあげたし、杉良太郎のガブリ付きな席のチケットもあげたし、弁当付きチケットあげていたし。
テレビ番組収録も良く友人たちと行ってました。
私より行った美術館の数が多いんじゃないかな。東京生まれの元女学生たちはトンカツ茶漬けを食べ、すき焼きを食べに浅草に行ってましたよ。
東京住んで親孝行をしたと思いたい私。
父も呼び寄せたのですが、東京は地震が多いと嫌がり、阪神淡路大震災で幼馴染のお父様を崩壊した家から助け出せず焼死されるのを経験しています。
その家族とはお正月に温泉旅行に行っていたそうです。
阪神大震災の一年後に父は倒れ母が介護をしましたが癌の進行が早くて亡くなりました。
東京に住んでいたら見なくて済んだものもあったのにと思うこともあります。
父は神戸市長田区双葉小学校の学区生まれでした。その生家も震災まで残っていました。
平家物語の舞台と碑も近所にあり父とよく行きました。
不動産会社のopen houseの宣伝ではありませんが、東京に住もう派です私。
今は家賃と土地が高すぎるけど、例えば足立区でも私からしたら文化的生活できますからね。
舎人ライナー沿線ならバストイレ付きアパートが5万円ぐらいで徒歩10分圏内にありますよ。
うちのトイレ共同、お風呂はお風呂屋さんか女性なら猫屋敷の母屋のお風呂のアパート、熊谷荘なんて五畳半で水道代込みで4万円。
近隣のアパートも共益費を足すと同じような値段です。
アパート出口から表通りまで、私有地です。
谷中の宮大工、菊池工務店の当主は夫の幼馴染で、頑張って宮大工が洋風にリフォームをしてくれました。
京都の宮大工で修行して、薬師寺の修復にも参加した宮大工です。
エアコン母屋より良いのを付けました。
窓から見えるのは日本美術院の中庭で、見える社には美術院の岡倉天心を始め関係者が祀られています。
塀の上は谷中の地域猫たちの通り道です。
共同廊下。
昭和の香りです。つか昭和45年か46年に建った物件なんです。
設計は藝大の教授がやり、建てたのは藝大で講師をしていた宮大工です。
建築を学んでいた方は木の仕上げとかで宮大工の仕事だと喜ばれますが、私と夫にはわかりません。
かつて瑞輪寺の門前で我が家も区分を持っていた私道跡。昭和時代の東京オリンピックの時に都に寄付を求められて差し出したそうです。
うちの区分でも今ならミニコ建ちます。
こんもりしている木々が日本美術院の日本庭園で、高い塀で守られていて外からは見えません。
子ども神輿。
近所のツバメの巣、毎年きます。
かつて竹屋敷と呼ばれていた明治時代に日本美術院が建てたアトリエの門。
立っている子どもは、坊ちゃんと呼ばれ専用の子守も付いていた夫。
この頃はお父様が運転手を家付きで雇いメルセデスベンツを管理させ、用があるときは車で出かけ、助手席に家族は乗らないので、家族全員で出かけるときはハイヤーを頼んで移動していたそうです。
昔、谷中に屋敷があった渡辺財閥。
経営していた渡辺銀行が議員による失言で経営破綻をしました。
その大恐慌は日本美術院にも及び手放した岡倉天心用のアトリエ。
谷中に住む画家の一人であった義父が日本美術院にも出入りしていた縁で購入。
日本美術院とは木戸で繋がっていたそうです。
長谷川利行が夜中に泥だらけで「登久平さん、登久平さん」と呼んだ家がここになります。
義父は戦争絵を描きたくなくて、文京区音羽台にあった東京航空計器に役員として入ります。
社長たちが戦争に協力をした疑いで進駐軍に連れていかれた後を支えた一人が熊谷登久平らしいのですが、私がうちで確認できたものは日本航空計器から贈られた記念アルバムと、紙が不足した時代に義父がラフを描いていた青焼きの設計図だけです。
日本航空計器に問い合わせてみたいと思ってますが、今の私は専業主婦です。調査員の肩書きもノンフィクションの連載も持っていません。
20代の頃は飛び込み取材もしていましたが、よくやったと思います。怖いもの知らずでしたね。
幸いこの近所は空襲に遭わず、義父は戦犯容疑にかからず無事。
屋敷も水洗トイレなのに米軍に取り上げられることもなく、戦後の超インフレと財産税を生き延びましたが、義父が亡くなった時に税対策で取り壊すことになりました。
戦後の税制度にあった、少しでも節税できる形にしました。美術院とついだった日本庭園も壊してます。
屋敷は震災と空襲を生き延びた平屋で、写真を見ると贅沢な吹きガラスをグルリと使った創りで、フジテレビのドラマ、モーレツ先生の自宅という設定で撮影に協力したこともあるそうです。
解体時は藝大の教授たちが立会い、昔の免震技術を調べていたそうです。
屋根は銅ぶきでした。
また、下北沢駅近に持っていた子どもに郊外生活を味あわせるための屋敷は手放しています。
当時の相続税の税率って恐ろしいものであります。絵にも相続税かかるし。絵は物納させてくれないし。
ついでに葬式泥棒やら借金の踏み倒しやら発生して、お父様のお弟子さんたちが残された母子家庭の生活設計をしました。
地方の有力者の長男であった熊谷登久平は、東京航空計器の役員として財界とも付き合いがあり、永田町の厚生省のメンバーを中心としたバリベア会という油絵の会の先生をしていました。
お弟子さんには事務次官も局長もいました。名簿を見てビックリしましたよ。
また元総理の大平正芳氏は義父が大学進学時に頼った親戚の千駄木在住だった鈴木三樹之助の次女を妻にしてて、付き合いがあったそうで、義父が亡くなった後も交流があったそうですが、葉書が残っている程度なので本当なのかわかりません。
調べに行こうと思ってた四国の大平記念館は老朽化で取り壊しになり、もうなかった。
ただ大平氏が学校に義父の絵を寄付した記録はネットで見つけました。
義父は癌になり日本大学駿河台病院で亡くなりました。これも調べてて体力不足で途中で投げてますが、当時の院長が義父と同郷でやはり親戚だったらしいのですが、一関市に調べに行ったら資料あるんだろうか?
義父の父親の資料は結構残っているようですが、あと義兄までの家系図が郷土史に載っているのは確認しました。
義父が亡くなり、相続税で色々手放した東京生まれの夫は、その後苦労したと言ってますけど、住み込みの三人のお手伝いさんが居なくなっも通いの家政婦さんを雇っていた時点で苦労したとは思えない、すれた私です。
てか東京って広いけど東京は東京なのよ。夫は東京生まれで売れていた画家の息子で、お祖父様は岩手県の豪商ひのやで当時の高額納税者番付に出る家の長男を父親に生まれたって恵まれすぎだわ。
あと、青梅から慶応に通っていた東京生まれの東京育ちのお嬢様と知り合ってご飯したけど、彼女電通の社員で、ご本人自身教養があってステキな女性。
青梅って良いところです。
嬉しいことに青梅美術館にはお義父様の熊谷登久平の作品が常設展示されています。
熊谷登久平は忘れられた画家だけど、青梅だから助かったのかしら。
青梅はB-29の墜落地点で、戦後50年のちょっと前に民家の庭にあったエンジンを博物館に収蔵するように勧めたのは私。
お会いした教育委員会のレベル高かったわ。渡した米軍の資料も活かしてくださったわ。東京は違うわ。
当時の星条旗新聞にはエンジンと私の記事があるわよ。
写真のスーツ姿の才女っぽいのが私よ。美人は星条旗新聞の記者よ。青梅の古い屋敷とか板碑とか歴史を感じて好きよ。文化施設も多かったわ。鎌倉街道萌えたわ。
楽しかったので、当時の夫に青梅なら家買えるから住もうと言ったら、那覇の繁華街に近いとこ生まれ育ちの彼に却下されちゃった。
青梅だって東京都なのに、空気良いし。
ちょっと行きたい史跡があって、それを案内して下さっていた地元の人に伝えたら「熊が出たから」止められたけど、青梅線の青梅駅は私が住んでいた頃の国鉄山陽本線の大久保駅や魚住駅より電車の本数が多かった。
便利だと思ったわ本気で。
元夫には栃木県鹿沼市の図書館と駅徒歩圏に家を買おうと言っても却下されたわ。首都圏なのに。
高口里美先生がお住まいの鹿沼市だったのに。
そういえば町田市の多摩団地の分譲タイプから早稲田に通ってた友人なんてハイソサエティよ。
お父様は大企業の社長だったわ。
元々江戸の直参旗本の家で、彰義隊に参加しなかったから土地財産残ったという歴史ある家系で、私の母方の尾張藩の木曽の材木管理とかの話より幕末の話しが面白かったわ。
海軍関係なんて誰でも、(たぶん)知っている雑木林の軍医さんの家で、ご本人に雑木林だと言ってしまったのを後悔してるわ私。若かったわ。
その彼女も地方の閉塞的なところで育ったら苦労したと思うわ。東京は人が多いし文化人がそこら辺歩いているから商業創作志願者とか目立たないのよ。
はす向かいに学芸員が住んでいたり、教授歩いていたりするのよ。
足立区だって諸星大二郎先生生誕の地よ。
東京育ち東京生まれは本当に恵まれていると思うわ。
横浜市生まれでも恵まれていると思う。
だから有名なブロガーは東京は消耗する地だと書けるんだわ。
私、人形町にあった出版社で働いていたけど、落語も観れたし明治座も楽しかったわ。通勤は地獄だったけど、あちこちの史跡や人形町って言ったら色子の街。
働けるのが本当に嬉しかったわ。仕事はきつかったけど、金もらえるし。
写真は谷中学校の象徴の建物。
谷中学校の発祥地は実は夫のお母様が経営していたアパートの熊谷荘です。
熊谷荘に住んでいた藝大生の手嶋尚人さんが始めました。
http://www.jutaku-sumai.jp/town/pastcontents/_npo/yanaka_01.html
夫の家族も敷地での空気の観察装置など協力をしたそうですが、ある日久しぶりに谷中学校を訪れた時に知らない若者に返されたそうですが、何かしたんでしょうか夫。
バイクの整備をしているとテレピン油のような匂いがするし、油汚れもひどいからホームレスと間違えられたのかなと本人は言ってます。
夫と同世代が始めた谷中学校ですが、今は形を変えて、また色々な集団もでき、藝大生たちの入れ替わりもあり、谷中の町内会とはほとんど接触が無いようです。
彼らは彼らの谷中を作っていくのでしょう。
時代は流れます。
以下、田舎モンの東京への憧れをまた書いてます。
私は地方の明石市魚住町金ヶ崎というよく言えば田園地帯で育ちました。
名古屋時代に小児喘息を起こして、親が小牧市小牧原に引っ越して、その後、父の生家がある神戸市長田区では無理だとなり、ヒルがいて蝮がいて、イノシシも出た金ヶ崎に引っ越しました。
村には一軒本屋さんがありましたが、閉店してしまい循環図書箱を置く家がありましたが、読みたい本はなく、父と大久保駅前の本屋さんに行くのが楽しみでした。
当時明石市の図書館は1つ。
美術館はなし、天文台はありましたが、絵の展示室は今はなき明石デパートぐらいという環境でした。
中学になり雑誌経由で同人活動を始めて年上の人たちと交流するようになりました。
先輩たちから聞く東京って、文化施設が充実してて、アニメスタジオ見学できて、映画館だらけで、学生は安く古典芸能からオーケストラまで見られる。
毎日がイベントの土地。
ティームコスモという、関西の漫画同人集団にも属していた私は団塊世代が東京で見聞きしてきた話しに夢中でした。
スターシマックという漫画を描いていた関あきらさんが兵庫県の中程の地に在住で、中学生だった私たちは国鉄の加古川駅で加古川線に乗り換えて小野市に会いに行き、一条ゆかり先生とマージャンをして負けた者がメカニックアシスタントになるとかをやり、聖有紀先生が連れていかれたなどを聞いてワクワクしていました。
定期的に神戸で開かれる交流会でも東京帰りの大人に会えて、美術館の多さや、電車代が安いなどを聞きました。
高校生になり、絵の先生が戦前に東京で油絵を学んだ方で画廊の話や画壇の話とかお聞きしてもっと東京に憧れました。
別に母校があった神戸市の須磨区も古くからの別荘地で天皇陛下の離宮があり、屋敷と一般人との住居地帯と空気が違うとかもありましたが、文化水準が低いわけではないです。
少年Hの妹尾河童さんが描いた看板も女子高校生時代には須磨寺の商店街に残っていました。
歌碑があちこちに建っていたし、源氏物語と平家物語関連の須磨寺が母校の裏手でしたし、母校の図書室は戦前からのコレクションが充実していました。
お寺さん系の女子校なので哲学系の寄贈本も多かったです。
でも私は東京に憧れて、いつかは上京するつもりでした。が、父の工場が不況と親会社のコンピュータシステム導入で傾いていき家計は大変になっていきました。
すかいらーくのキッチンバイトに入りました。
そこにも東京の大学出身の社員がいて、色々話してくれました。
今考えると女子中学生や女子高生に「東京にいたんですか凄いですね」と言われたかったのかな彼ら。
お陰で学生向け価格で美味しい店を知って上京できましたが。
まあ、ネットもない時代で雑誌で読むと東京で開かれる美術展やテレビまんがイベントなどの多さに憧れて羨ましく、国会図書館の存在も羨望で、都立図書館もめちゃくちゃ憧れたんですよ。
田舎モンですから。
上京後は田んぼと畑が残ってた竹ノ塚に住んで図書館と本屋さんと古本屋さんの数に喜び、足立区梅田にあった中央図書館に歓喜し、たまに行ける美術展に喜びの踊りを舞い、科学博物館やパンダに大騒ぎをしたおのぼりさんでした。豊島園も後楽園も谷津遊園も豊島園も花屋敷も好き。
デパートの屋上の観覧車から見える風景も好きでした。
今もおのぼりさんですので、育児と介護が一段落したので都内観光を楽しんでいます。
東京で生まれ育った子どもに安くて美味しい店を教えてもらうことも多いです。
電話回線のパソコン通信時代も美味しい店の教え合いや美術館情報も交換していましたが、インターネットの今は情報速度が速いですし、沢山のものを画面越しに見ることができます。
そういう世代からすると、「まだ、東京で消耗をしているの」的な発想になるかも知れませんね。
でも地方出身の私からしたら、生活は東京の方が楽です。
よくコケにされている足立区竹ノ塚で学生時代を過ごし、秘境と呼ばれた足立区舎人で育児と介護を経験し、経済的苦労もしましたが、上京したことを後悔したことは多分ないわ。
台東区も23区ディープなどで馬鹿にされていますが、馬鹿にしているライターさんはどこに住んでいるのだろうとたまに思います。
23区格差の本を書いた著者さんの出身地は何処なんだろう。とか。
人が多ければ犯罪も多い、でも陰湿な殺人が地方でもあるじゃないですか。
私が明石の辺鄙な村社会で生き続けていたら窒息していたと今も思う。
明石は好きです。
城下町や万葉集でも歌われた美しい景観、宮本武蔵ゆかりの地、松本零士先生が戦前過ごされた家は平成まで残っていました。
魚住町の錦ヶ丘にあったキリスト教系の老人ホームには高畠華宵が居て伝説的な幸せな出会いがあったと中学の時に、その老人ホームの牧師?さんがお父様の友人が教えてくれました。
wikiだと神戸の老人ホームになっていたけど、少なくとも私が中学の時に聞いたのは明石市魚住町の施設です。
そこにボランティア参加できたのは今も良い思い出です。
今は魚住町も新興住宅地化が進んでいますが、昔のあの本家分家の人間関係は今は無くなっているのでしょうか。排他的だし、視野が狭い人が多かった。生まれに対しての強烈な差別もありました。
まあ、私は本陣跡の家の子に「本陣の資料残っている」と小学生の分際で聞いたり、長屋門を珍しがったり、色々聞く、可愛くない子ではありました。
江戸時代生まれのおばあさんに茶屋の話を聞いて、色ごとあるなんて知らなかったから怒られたりもしました。
おかげで、中学になっても上履きにミミズを入れられ、理科室でカミソリを渡され手首を切るように強制されるようなイジメの対象になってました。
それで、明石市の高校受験制度を避けて神戸の女子校に逃げて成績順でクラス分けされて人間関係が楽になり、学校が楽しく。
その次東京に出て正解だったと思う。
逃げてきた東京には特異性を個性と認める余裕があった。
ない人には無いけど、ある人がゼロではないのが凄いですよ。
魚住町時代は雑誌やラジオの投稿でしか発揮できなかった私の心の内面が仕事になり、金になるのが東京でした。
まだ、出版業界が元気で、TVゲームやパソコンゲームなどの新しい文化が生まれていた時代だったのも、私の運が良かったのかもしれませんが。