文京シビックホールで川端画学校出身の画家たち展的なのを昔やったのは確かなのだけど、そのときは文京区が運営していて、今は指定管理業者になっていて引き継がれた資料の中に川端画学校関係のものはないとのこと。
文京区のふるさと館にもなく、図書館にもなく、文京区役所に問い合わせた時は管轄がわからず。
今現役の方で川端画学校を研究された方で私にわかっているのは徳島市立美術館の江川佳秀先生だけで、その論文が川端画学校について詳しい。
でも日常風景はわからない。
雨が降ると大変だったとか、義父がいるときに女学生が自殺したとか。
海老原喜之助と近しかったとかは分かっていて紙資料も残っていて、熊本の人吉への疎開も父が勧め間に入ったとの文章も残っている。
以前、某院出身の方から私には基礎教育と教養がなく、その基礎の中には資料にたどり着けるのも含まれると、その大切な基礎を学ぶ時期に子どもを作って怠けていたような人、空っぽ云々と言われて文字通り血を吐いたこともあるが、あれから30年経ったが何をどうしたら良いのかが相変わらず右往左往で、凹んでばかりだし、2年前にも美大で教えている人に教養がないと言われたし。
つか凹む。
あと、昔よくサゲマンの典型と男社会の仕事仲間に言われたが、夫を出世させないタイプの女的な話で、元夫との離婚騒動の時には人生返せ的なことも言われたな。
昨日少し嫌なことがあり、今夫と再婚する時に夫の後輩からは酔った勢いで、女房は正社員が良い、健康な人が良い、「この人は白蟻のようなものだ金を産まない子も産めないと、白蟻母娘」とまで言われたことがまた心の奥から出てきて。
ここ数年は怒られることが多くて、熊谷家に迷惑をかけてる的なのもあったし、人の研究成果と実績を盗んだと怒鳴られ馬鹿記者と連呼されたのは心底驚いたし落ち込んで今も怖いし、そのときの相手は偉い先生なので夫も娘も私を信じてくれなかったし、たまにもういつの日かに偉い人がやってくれると信じて何もかも投げたくなる。
で、ここ数年で実績も生産性のない私に危篤が2回もあったのに助かり、実績も生産性も才能もあった友人の明智抄が突然死したことが悔しくて、その悔しさが私に対しての怒りになる時もある。
やってもダメなことの方が60年近く生きて多かったのに、僅かなやれたことをカタル自分の評価に今年は馬鹿記者が加わり、それを押し返せる自信がなく、嫌になっている。
とか鬱々しながら、川端画学校についてワードを色々試しながら検索していたら坂口安吾の研究者である『帆苅 隆』氏が川端画学校についてツイートをしておられるのに気がつき、義父も坂口安吾の挿絵を描いていたなと氏の他の発言にリツイートをした。
https://twitter.com/takahokari5241/status/1436552121223028737?s=21
帆苅隆氏こと@takahokari5241 氏は郷土史と坂口安吾研究が趣味と自己紹介に書いておられるが、流石というか義父が挿絵を描いた『夜の王』掲載誌もお持ちであり、写真をアップしてくださった。
私が資料室でコピーをしたのは状態が良くなく、スクショとブログへの転載をお願いした所許可を頂けたので載せます。
義父と坂口安吾の繋がりは白山の南天堂繋がりなのか、川端画学校の藤村兄弟つながりなのか林房雄繋がりなのか今はわからない。
文壇と繋がりが強かった矢野文夫氏からかもしれないし、アテネフランセに通っていた川端画学校の仲間繋がりかもしれない。
わからないが沢山ありすぎる。
また凹む。
でもありがたいも沢山あって、生きられる。
以下、戦後の宮沢賢治研究者の第一人者の佐藤寛氏の戦前の名刺。
この頃は石川啄木のファンで短歌の同門の長谷川利行と、その友人である熊谷登久平と浅草で飲んでいた。