熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

渋谷に行った。前回はCCレモン会館だっけかの記念会的な時なので太古だ。かつては渋谷会館、今はない。

渋谷の文化村でミュシャを観てきました。
もう何回観ているのでしょうか、でも飽きません。
楽しい時間を友人と過ごしたのですが、展示を観ててある友人のことを思い出して寂しくもなりました。
彼女は一時期ポスト24年組とも呼ばれていた少女漫画家でストーリテーラであり、憧れの人でもありますが介護離職をした仲間の一人でもあります。



18の時に、アール・ヌーヴォージャポニスム展を鑑賞した時の感動を、昭和後半以後に生まれた世代に話しても理解はできないだろう。
ミュシャは19世紀後半から第二次世界大戦前まで、活躍した画家で、商業デザイナーでもある。
日本の大衆美術であった浮世絵などが日本の開国以降ヨーロッパでジャポニスム、新しい美として流行した頃、上流社会のものであった芸術が、印刷技術の発展で広告などで大量消費される時代がパリの万国博覧会をきっかけに、とかうろ覚えだけど、明治時代に既に日本人が絵を学びに留学しており、パリの流行作家のミュシャの絵も彼らによって日本の雑誌を飾った。
このジャポニスムの逆輸入は洋画家を目指す若者たちに熱狂的に支持されて、ブームが起きた。

例えば与謝野晶子の乱れ髪の表紙絵、あれは義父の熊谷登久平の師の藤島武二画伯作だが、ミュシャの影響が強く出ている。
藤島武ニは日本画家でもあり洋画家でもあった、まさにジャポニスムを吸収するには最高の人材の一人だったと思うけど、オトーサマ、未来の息子の嫁のためにサイン色紙の一枚でも良いからもらっておいてくだされば、明子はあなたの息子の奴隷になりましたのに。


ミュシャの絵の展覧会になぜ戦前の話やらプラハの春だとか、ナチスとか、ソ連とか、死語の羅列を私が並べるのかというと、ミュシャの絵はパリを占領したヒトラーの趣味に合わなかった。並べてないけど。

商業デザイナーとしての彼の画業は、ナチスドイツの時代前に彼が故郷であるチェコに帰国してほぼ途絶える。
チェコで彼は芸術家としての完成がされた。と、私は思っている。
売るための絵を描かなくても食える人となった。


ミュシャは数年前に上野で展示されたスラブ叙事詩が芸術家としての代表作となる。
それは1918年オーストリア帝国の崩壊で独立が叶ったチェコスロバキア共和国を祝福した民族的な絵でもあり、共和国のために無償で多くの作品を描いたがために、ナチスドイツの侵略により共和国が消えたあとは、ミュシャは逮捕された。
そして、獄中死をしたと伝わる。
ナチスドイツがソ連侵攻に失敗し、連合国に敗れたあとチェコスロバキアは再び独立したが、共産党支配下の国家としてで、民族的なミュシャの絵をチェコスロバキア共産党は評価しなかった。

第二次世界大戦後、アメリカを中心とする資本主義国と、共産党ソビエト連邦を中心とする社会主義国にざっくりと世界は二分された。
社会主義国側を東、資本主義国側を西。

そして冷戦時代という東西疑心暗鬼の時代が訪れた。
鉄のカーテンという壁ができ、ミュシャの作品を西側が観ることは難しくなった。
が、資本主義国と社会主義国の代理戦争の代表であったベトナム戦争の長期化と泥沼化への厭戦感情が戦後生まれの団塊世代に生じて、戦争するより愛し合おう的な流れで東側の芸術の一つとしてミュシャの絵が再発見されて、かつて大量消費された広告作品が次々と紹介され彼らに熱狂的に受け入れられた。

でも西側での再評価だったので、展覧会で生で観られるのは広告美術のミュシャだったよ。
芸術家としてのミュシャの作品が見られるようになったのは、冷戦時代が終わりに近づき鉄のカーテンが開かれてからなうろ覚え。

以下もテキトーにダラダラ。
まあ三行に纏めると油画の先生、田中祐一先生に百合の花を鉛筆でと個人的に課題を出されて何回か提出してもダメだめで、突然ミュシャの画集を貸してくれたよ。で良い百合が描けて褒められて嬉しかったので、今もその時のスケッチブックを持ってるよ。
田中先生は少女漫画家の森脇真澄さんの先生でもあるのよ。でその頃私は少女漫画家たちと交流をし始めたんだよ。
三行じゃないね。
以下も駄文。





若者の自己表現としての音楽やアート、ヒッピー文化、ロックにミュシャ的なものが増え、私の場合はロックのLPのジャケットで観るものとなり、ロックを愛した少女漫画家がミュシャ的な絵を描き、その中に私の年上の大切な金沢生まれの友人もいるのだけど、
彼女は介護離職をしてしまった。

もう一人、クイーンが好きな少女漫画家もいて彼女もミュシャ的な絵を描いたのだけど、やはり介護離職をして、あ、彼女の場合はフアンクラブが機能しているから消えた漫画家にはなってない。

たまにネットで話題になる金沢の友人は二年ほど連絡がつかない。
住所はわかっているけど、介護卒業後はしばらくは虚無になるからとか私は私に言い聞かせているけど、大丈夫だろうか。
目も痛めていた。
金沢の少女漫画さんたちとは交流しているだろうか。
一緒に美術館や旅行したり、ささやさんも一緒に、吉祥寺や下井草や新宿で呑んだくれたりした頃が懐かしい。

ねえ、生きてる?
今日はミュシャに影響を受けた漫画家たちの作品も観たよ。早世なさった貴女の友人の作品もあったよ。
貴女の作品がないことが寂しかったよ。
帰ってきてよ。
また政治問題から軍事から世阿弥や信長やベルリンオリンピックや、大根餅食べながら喋りたいよ。
今、池袋はかつての租界のようだよ。怪しい中華を食べようよ。
夜来香を一緒に歌おうよ。