一九三一年の今日は、満州で柳条湖(りゅうじょうこ)事件が起きた日ね。怖いわね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
以前書いたことがあるけれど、板橋区立美術館に義父の熊谷登久平について問い合わせたことがある。
板橋区立美術館は池袋近辺のモンパルナスと呼ばれた画家が多く住んだ場所の展示をしたことがある。
これについては間違いない。
板橋区の熊谷登久平の作品を展示したことはないのか、調べたことはないのかと質問したが、学芸員さんの返事はないとのことでした。
またモンパルナスの画家として熊谷登久平は扱ってないとのこと。
(以下三行に纏めると、義父の絵2枚展示した記録残っているじゃん。しかもモンパルナスの企画でさあ。
ってことです。)
だけど、私はあったと聞いている。
台東区谷中に住む遺族はそれを山手線の中吊り広告で知り夫が問い合わせたら、担当学芸員がここに釈明にきたとのことだった。
インターネットで調べてみたがオンライン情報の文字では痕跡がない。
なので、板橋区立美術館の出版物を片っ端から調べたら、まんま図録の表紙写真にカメラ慣れしてて端っこのくせに目立つように写る義父のそっくりさんがいた。
夫に板橋区立美術館の学芸員さんは謝りに来た時に図録持ってこなかったのかたずねたら、なかったと。
著作権を相続している遺族に図録持参しないで会いにくるのは訳ありだわねと現物を見てみたら、まず表紙に使われている写真の説明文がない。
これ、いつの1930年展の集合写真なのよ。参列者から1930年協会から脱退した人を探して検討つけないとダメじゃん。
まだエプソンがデジタルカメラを世に出してない頃の印刷屋が写真を加工した時代ギリギリの表紙だわ。
母の従弟の所に行く前に入手しておけば良かった。叔父さんは1930年協会にも詳しかったのに。
老眼の私には優しくない作業なので、後回しにして、本文を観ていくと、あるじゃん義父作品、2作品も、協力者名を眺めると義父の弟さんと、夫の従兄の名がある。
ああ、ここで関係者探しをストップしたのね。
本家に遺族のこと聞かなかったのかな。古い旧戸籍制度の感覚な学芸員さんだったのかな。
千厩警察署も協力者一覧にある。
で、作品の作家名を見ると、熊谷徳兵衛とある。
これ、本名。
この名で調べたのなら美術年鑑や美術雑誌に載っていた熊谷登久平の住所と電話番号にはたどり着かないね。
この名が美術関連で紙印刷に載ったのは長谷川利行と「俺の絵を見れぇぇぇぇ」展をご近所でやらかした時ぐらいしか見当たらないんだけど。CVは林延年ね。
朝日新聞で絶叫してた感じの時代で、この展示会のおかげで里見勝蔵先生の興味を引き、自宅に招かれて長谷川利行さんと二人で一升瓶三本開けた頃の話し。
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10159.html
このご縁で、一九三〇展に応募して入選したのかな?
残念ながら我が家にあるスクラップ記事には、この入選記事はない。
義父が大きく取り上げられるのは、国の展覧会である二科展に入選してからのようだ。私網羅してないので、記事があったらごめんなさい。
で、学芸員さんは熊谷徳兵衛で調べて、熊谷登久平では調べなかったようだ。
徳兵衛と登久平が同一人物と気がついていなかったようで、他の画家の場合は二つ名を書き加えているのに、残念ながら徳兵衛の項目にはない。
これでは、この展示があった時代に在籍していない学芸員さんは見つけられないだろう。
不詳となった画家の項目に長谷川利行と交流があったと但し書きを加えているのを見ると、矢野文夫氏の長谷川利行を参考にしている部分もあるのかな。
この図録の一九三〇展に入選した画家名一覧には箇条書きではあるが、画家についてわかることは書いてある。
そこに、登久平の名はないから、繰り返すが、現役の板橋区立美術館の学芸員さんは見逃したのだろう。
かわいそうなおとーさん。
前任はモンパルナスの一員として扱ってくれたのに忘れられている。
晩年は髪の毛が爽やかになったけど、若き日は爽やかなイケメンを自覚して、群像に紛れてる可能性がある場合はかなりの確率で、謎のポーズで写る人なのに。
この図録の画家紹介欄には不詳の文字が並ぶ。
義父の項目の部分の写真を載せるが、不詳だらけだ。
不詳、つまり最後まで追えない画家。
先日遺族から書いたら訴えると言われた、この時代にムンクについての連載を持っていた画家であり、研究者であった人物も最近の研究者が書いたものでは行方不明になっているが、彼が行方不明となってしまったのは戦後の混乱期のこと。
生きていたんだけどね。実績あるんだけどね。
それ詳しく書くと遺族に訴えられるからね。
一九三〇年協会は日本の洋画史では羨望を持って語られることもある。
日本の洋画家たちが先人たちの美学に反旗を翻し表現の自由に目覚めた場とも、思春期にアバンギャルド河原を名乗った私は勝手に思っているけどね。
その一九三〇展に入選した才ある洋画家の三割近くが不詳。
この一九三〇年は関東大震災の被害から東京市が復興した祝いのイベントが行われる予定の年だ。
復興特需で鹿島建設ができたり、寒村から労働力が集まってきたり、銀座には関西資本のカフェが進出し、浅草寺の雷門もきちんとしたものを松坂屋が寄贈し完成している。
なぜか仮設の雷門と今は書かれているが、昔浅草に住んでいた母の友人の旦那さんはお坊ちゃんで完成した時の盛大な祝いを話しておられた。
そして、東京市の繁華街などから焼け出された人たちは借家住みの労働階級は辺鄙な埋め立て地の東京市営住宅や、大東京市として復興するために編入される予定の足立区や板橋区などに移り住まわされるか、金があれば最新鋭設備のアパートメントや高級新興住宅地の田園調布や松濤などに移り住み、復興特需の恩恵を受けて景気良く東京音頭を歌う。
とか脱線しまくりますが、東京市に編入された地域の電気が24時間通電となり、地主は文化住宅を建てて大家となり、金は金があるところに集まり、私たちがよく知る世界に向けて発信された文化的な東京市の写真のような表の時代。
で、世界は大恐慌に向かい、日本も実は好景気なのは利便性の良い、東京から金ある人々が移り住んだ関西の芦屋とか西宮とか、最新式アパートメントとか、都市近隣の地主さんとかな。
東北では女の子の身売りが増えて、大陸では関東軍がやらかし始めて、共産党員が捕まり始め、生活力がない人たちは外国人の目につかない貧民街に追いやられた。
一九三一年の今日は、満州で柳条湖(りゅうじょうこ)事件が起きて、満州事変に時代は向かう。
勝った勝ったの報道やら、陸軍省、海軍省が上手い画家を取り合うようになり、世界の藤田はシッカロールを使った肌色から、戦場画を描くようになっていく時代。
一九三〇年協会に入選し、展示された若い画家たちは戦場で死んだり、赤狩りに捕らえられたり、パリで自殺したり。
不詳、つまり消息不明になったり。
空襲や戦死もあるだろうし、自由に描いて不自由な思いを国家権力にさせられた人もいるだろう。画材は体制に協力的だと判断された画家しか配給されなくなっていく。そして輸入ものが多かった絵具は画家と画材屋が必死で代用品を創ろうとしていた。
上野桜木の浅尾丁策さんですら、赤い土があると聞けば遠くても出かけて行き山中で遭難しかけたり。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B0%BE%E4%B8%81%E7%AD%96
まあ、義父は情報網を駆使して、ぬるっと戦場画家になるのを逃れましたけどね。
でも画家としてその時代も作品発表してたけどね。
東京府下の工場に勤労奉仕で集められた岩手県の女学生に「てきとうにやりなさい」なんて言っちゃったりして岩手県の戦後70年誌に「がっかりした」と書かれるぐらいの時代を読んでいた人だったのね。
戦前って結構気がつかないうちに戦場になるのよね。
ここは戦場だと気がついたら、焼けていたりした的な。
オリムピック物語の大河ドラマのいだてんが、ちょうどこの時代を放映しているよね。
あ、おとーさんは立派な虎の絵を描き残しています。
これをご覧になられた中澤弘光画伯が毛筆でお褒めの手紙を送ってくださり、おとーさんは感動して、この絵と手紙を大切にしてたのよ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E5%BC%98%E5%85%89
なので、手紙と一緒に私が以前勤務していた博物館に預けてあるわ。
この絵は戦前の上野動物園の虎を描き、鉄格子が虎の紋様に溶け込む迷彩的な効果を表現していて、私的には凄いと思ったわ。
で、この虎は空襲になったら檻が壊れて逃げ出したら大変と殺されてしまうの。黒豹もライオンも猛獣と言われた動物はみなよ。
この辺りは皆んなのトラウマ小説「かわいそうなぞう」に書かれているわよね。
動物たちが殺されたあと空になった檻に、東京大空襲あと、B-29搭乗員が展示されていたのは、あまり知られてないわよね。全国紙で書いたの私だけだったし、早乙女勝元先生が書いたのは数年前だし。
展示されていたのは虎の檻で、上野公園に避難していた被災者を招いて見せたのよ。
展示されたロイ・ハップ・ハロランは星条旗新聞の私の記事を読んで手紙をくれて、色々あって私が上野動物園の虎の檻まで案内したの。
その前に上野東照宮にある原爆の火や、動物園の慰霊碑にも案内はしたけど、虎の檻の前で泣かれてしまったわ。
私も泣いたわ。
ハロランは自分がパラシュートで脱出した時に見逃してくれた日本機のパイロットと自分の機体を撃退した屠龍のパイロットも探していたわ。
屠龍はあの樫出さんが名乗り出たけど、勘違いで最後まで誰が操縦していた屠龍なのかわからないままで終わってしまったわ。
でも見逃してくれて敬礼したパイロットには会えたのよ。
その辺も私は丸で書いたけど、早乙女先生も詳しくかいてるわ。
ハロランは亡くなるまで、東京大空襲を記録する会に毎年寄付をしていたのよ。あと、ブーブーブラックシップの作者のあの人とも親友だったのよ。米軍エースパイロットのあの人よ。
人は平和を祈りつつ戦争もする複雑な生き物なのよ。