熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

長谷川利行 矢野文夫著 1974年5月30日発行 株式会社美術出版社版より抜粋 熊谷登久平

104頁より、読みやすいよう熊谷明子が行間開けました。

熊谷登久平(独立会員・死去)が、当時の利行の様子をよく表現した追想を、「日本美術」(昭和四十二年十月号)に書いているので、引用してみる。

「そもそも、私が長谷川利行と知り合ったのは、大正十五年、藤の花が綺麗に咲いている五月だった。(注・これは熊谷の錯覚で昭和二年九月が正しい)根津八重垣町の清秀館という、明治初期には遊郭だった三階建ての下宿屋に、矢野文夫、村井武生などの詩人たちが下宿していた。私は中学の同級生(岩手県立一関中学校)の矢野文夫君を訪ねて行ったら、白地の一重の絣に紺の羽織を着た、浪花節語りのような男がいて、矢野君は『絵を描いている長谷川利行氏だ』と紹介した。私はこの清秀館から一町ほど藍染橋に寄った北洲亭という西洋料理店の裏の家の二階に、熱海の(結核)療養先から帰って、また絵でも描こうと引移ってきていたのだった。」

利行と熊谷は私の紹介で急速に親しくなり、時には熊谷と利行の二人で、ある時は私も交えた三人組で、毎日のように顔をつき合わせるようになった。そのいきさつも熊谷自身の記述によることとする。

「翌朝、玄関口で、二階に向かって、熊谷氏、熊谷氏と呼ぶ声がした。窓から顔を出すと、昨日紹介されたばかりの長谷川利行氏だ。早速招じあげて訪問を喜んでいると『長谷川は死ぬ、五円出せ』という。私が五円札を出すと、今迄の渋い顔を、ほころばせて浅草に行こうという。しかし、その日は断った。」

私が紹介した翌日、早速出かけて行って、いきなり「五円出せ」と凄む利行に、熊谷も、どぎもを抜かれたであろう。熊谷は絵を描くような奴は面倒を見てやらぬと岩手県千厩町の親元から勘当され、カフェ勤めをしている女房に養われている身分だった。当時の五円は大金である。(酒一合十銭の時代だ)

以上、今日の分の引用終わり。
この時期の熊谷登久平の女房と呼ばれる女性は熊谷衣子と名乗っていた、銀座のカフェ、サロン春のマネジャーをやっていた横江政恵だ。エプロンネーム(源氏名)はまた異なる。