裏の墓場、昨日までは暑いという悲鳴のような会話が台所に立つと漏れ聞こえてきたが、今日は台所のエアコンを作動せずに済む程度の暑さだったからか、小さな子たちがはしゃぐ声が聞こえてきた。
上野の山の葵を頂く寺が管理する墓地なので雑草もなく枯れた花はいつのまにか片付けられるし、幹線道路に面してないので煤煙もあまりなくお参りにくる家族は結構楽だと思う。
それでもたまにゴシゴシと綺麗に洗う方がいると思うと、暫くしたら墓じまいされることがある。
大抵女性が墓じまいをしているので、女性の寿命や結婚相手が戦死した世代とか色々想像をしてしまう。
女友達でひとり娘だったりしても墓じまいを悩んでいたり、姓が違う血縁にいわゆる良い場所にある墓地を譲り、端っこに自分たちの代々の墓石を残して欲しいと頼んだのもいる。
私の母の実家の墓も継ぐはずの従弟が年代物の引きこもりとなったので嫁に出た従姉が管理料を払っている。
その墓は名古屋の八事霊園にあり盆になると五家族が集まり、江戸時代からの先祖と一緒に稲荷寿司と霊園前に戦前からある団子屋で買ったみたらし団子を食べた。
母の実家は毎月手入れに行っていたので、芝が綺麗だった。
が、母の実家が菩提寺以外の信仰宗教にハマってから少しずつ行事が変わっていった。
母の先祖は武家で木曽の材木を管理していたらしいが、明治維新で失業したが菩提寺を大事にしていたので寺が寺子屋の先生にしてくれて、学校が出来てから寺町の花を全部扱う家にしてくれたと聞いている。し、分家さんがよく調べていた。
これは調べてないが田園調布の商業地域でカフェを経営した母の叔父がいたとか、車を持っていたとか、子供用の自転車を持っていたとか貧乏では無かったようだし、母の従兄弟に金のかかる画家になったのもいるし、叔母は女子美に入ることになっていたと聞く。
祖母がワガママな末の娘に怒り床の間にあった日本刀を振り下ろしたら「動くな」と言ったのに娘が動いたために少しスパッツと切れて、その傷が残っていたけど刀は戦災で焼けたとかな話も残る。
戦前の生活は菩提寺が世話をしてくれたからだと祖母や母の兄弟たちは話していたのに、新興宗教にハマり菩提寺を疎かにして、悪いことがあると先祖の業がきたと新興宗教に寄付をしてを繰り返し、母方はボロボロだ。
とか愚痴。
父方の墓は父の本妻の息子が管理をしているし、二人息子が生まれたはずなので暫くは安泰だろう。
父の妹さんの家の墓石もいつのまにか増えていたし。
残念ながら父は外に子を作ったので私の腹違い兄から拒絶されて奥さんが眠る墓には入れず今は私の母と同じ墓に眠る。父は実家の墓に入りたがっていたが自業自得だ。
で、私の両親の墓は弟が管理している。弟にも息子がいるので暫くは大丈夫だろう。
私の息子は私が倒れた時に墓の心配をしていたらしく、今の夫と初めて会った時に菩提寺に案内されて会食をしたんだけど、「墓が駅から近い」とか、「良い墓がある」と喜んで私と夫の結婚を許した。それまでは私のダメンズウォーカーさを語り再婚を反対していた。
でも墓で再婚しても良いになった。
なぜ墓?
私は散骨を頼んでいたのに墓?
とか複雑な思いはある。
息子は沖縄の旧家の次男の子、仏壇のある家の次男の子という立場で、沖縄は長男が一族の墓と仏壇を守るから離婚しなければ、私たち全員沖縄の墓に入るので墓問題とか我が家では全然話題にならなかったので、息子が墓を意識していたのは不思議だった。
息子の父親の家は家系図によると琉球の武家の家で中国に使者が行くときの護衛の家。
それが島津藩に支配されたあと、小野何某という薩摩藩士が婿養子になり、苗字が中国用と琉球用と薩摩用の三つある。
家紋も隠したものがあり、沖縄では使わない。
小野何某の薩摩藩側の家系は断絶している。
でも薩摩藩関係なので明治政府の仕事にはありつけ。
中略
一家は沖縄戦の時は琉球王印のある家系図を持って逃げ惑っている。
中略
この薩摩藩の血が流れる家は琉球貴族の家からは格下で琉球銀行の役員の娘の義母と義父が結婚するときに一悶着あったそうだ。
そんな旧家に生まれた元夫は次男コンプレックスを拗らせていたけど、何かあると実家に頼れてて羨ましいものはあったな。
でも長男さんは跡取りとして厳しく育てられて高校も自由に選べず、大変だったと思う。
あと仏壇を持つ家の長男に嫁いだ女性も大変だったし。
本家は分家の仕事の世話もしてた。
なので、昔は沖縄にホームレスはいないとか言われてたのだけど、今の沖縄の貧富の差は激しい。
で、恵まれた家の次男なのに拗ねた元夫は面倒な人だけど、墓は沖縄にあるから息子はそちらの心配はしなくても良く。
私は海に散骨を頼んでいたけど、墓を気にしていたのね若いのに。
そんな古い頭の子だから明日は孫を見せに遊びにくる。
婿養子に行ったのだから、こちらの盆とか気にしなければ良いのにと思いつつ、孫は可愛い。
です。