熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

母の誕生日

正直、まだ精神的にしんどいし体調も悪いので昨日今日も眠れなかった。今は5時前だ。
今日は母の誕生日だ。
母の実家は戦前の中流階級だったので、面倒なお嬢さまであった。家が空襲で焼け、地震もあり、伊勢湾台風でも被害を受けて再起できなかった家だ。それを嘆き続ける本当に面倒な人だった。

母の実家の墓は名古屋にあり、名古屋市が戦前に墓を八事に集め始めた時に購入した。
その前は尾張藩が管理する木曽と、名古屋の尼寺にあったそうだが、曖昧だ。
維新後に名古屋市で早くにできた小学校の前身の寺子屋で先生をした母の家は、学校制度が変わるときに藩士時代寺院用の材木管理をしていた関係で寺町で花屋をやり、武家のなんたらだけど繁盛し、子供用の自転車や滑り台もあり、東京に出た母の叔父がカフェをやり、もう1人の叔父は自家用車を持ち的な生活をして、戦中の食べ物が無くなってきた時も、花を仕入れていた農家さんが米を入れてくれて空襲までは苦労を知らなかった人たちだったらしい。

なので、ボケてからは良い時代の食べ物を欲しがるようになり、私は百貨店で母好みの老舗の味を探したものだった。

本当にボケてからは大変だった。その前も楽しいことも沢山あるが、嫡子たちと比べると私のできが悪いことなどを嘆かれるのは嫌だった。

生きていれば89歳だ。
母の兄も50代でアルツハイマーになり、私の記憶障害はアルツハイマーへの遺伝子だろうかと不安になる時もある。

母の誕生日はいつも寿司だったが、今日は夫が鰻を取ってくれるそうだ。母は南千住の尾花が好きだった。尾花は高級店なのだが、リーマンショック前には足立区舎人にも鰻屋があり、そこのも好きだった。

祖母は小牧にあったやはり老舗の鰻屋が好きだった。

私の鰻好きは母方の血だろう。
今夫は私を口説くのに玉林寺の隣にあった鰻屋の鰻も使った。反対している息子の説得材料にもそこの鰻を使い、娘もそこの鰻で懐柔した。
あの鰻屋さんも今はなく、返し損ねた鰻重の器が我が家にある。

夫の家族、それこそ義父もその鰻が好きで友人にも振る舞っていたそうだ。
美味しい鰻だった。
あの鰻、母に食べさせてあげたかったと思う。
まぁ、母の遺伝子をもつ、私の息子と娘、そして息子の奥さんが食べたから遺伝子レベルで鰻孝行をしたかなと思ってみたり。

池之端にも美味しい鰻屋さんがあり、また、夫の後輩が経営する鰻屋さんも美味しい。
絶滅危惧種なのは知っている。




昨夜私が風呂で意識を失ったので夫に心配されている。