熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#長谷川利行 と熊谷登久平

f:id:TokuheiKumagai:20190817223156j:image

 

義父の手記というか随筆というか「長谷川利行と私」熊谷登久平 の記述は長谷川利行関連の書籍や映像の殆どで参考にされていたり、引用されている。

亡くなってすぐに書いた文章もあれば、義父が亡くなる2年前に書かれたものもある。

が、引用している先がどこに載せるとかの連絡をくれないので全部がこの家にあるわけじゃないし、一番最近の長谷川利行展の図録にも引用はされているが、もちろん連絡はなかった。

東北方面の報道関係で義父の絵が出ることもあるらしいが、著作権を持っている遺族に連絡はない。

義父が亡くなった直後の本だと遺族の了承を得たと書いてあったりもしたけれど、今はない。

 

で、ないないづくしで義父が書いた文章の中には長谷川利行との時代のものがある。

その中で義父の母親、つまり夫の祖母をモデルに長谷川利行が描いた絵は疎開先でキャンパス代わりにしてしまい潰したとあるが、他に義父と妻を描いたのそれぞれあると書いてあった。

その妻とは義母ではなく、長谷川利行の在命時に熊谷登久平の妻の座にいた銀座サロン春の女給頭のこと。

戦後夫の母親が正妻の座を得たために、愛妾となった、横江政恵、戦前の新聞記事では美しい絹子夫人と書かれている女性だ。

大阪にあったサロン春から銀座店に移動してきたと思われる、戦前この家に泊まったり下宿をしていた元千厩町長の熊谷儀一さんは関西訛りを覚えている。

 

長谷川利行が描いた熊谷登久平の絵は義父が亡くなる前までは、この家にあったようだが、政恵の絵のことは語っていない。

それを書いた時は既に夫の母の房江との間に2人の男の子を得ていたし、この頃語る妻は房江のことなので政恵の絵について触れなかったのかも知れない。

以前も書いたが登久平が22歳下の房江を山形から連れてきた後も、登久平の下積み時代を支えた10歳上の政恵を追い出すことはなく、この家は妻妾同居となった。

役者であった30以上歳下の房江にはあまり教養がなく、女学校出を売りにしていたサロン春の女給頭の政恵はフルコースの食べ方や栄養の化学式や洋食の作り方などを房江に教えた。

義母は三味線や唄と踊りと縫い物と琴もできたので教養がなかったわけではないと思うけど、銀座でチップナンバーワンと言われていた女学校出の政恵からみたら小娘だったかもで。

 

話が逸れまくったのは毎度ですが、長谷川利行が描いた登久平の肖像画の写真のコピーは今日もダンボール箱の山の中から見つけたけど、政恵のも誰かが一緒に持っているのかな。

 

義母は熊谷家のお墓に一緒に眠らせたかったそうだけど、菩提寺のご住職にダメだと言われて同じ敷地内の違う墓標の下で眠っている政恵。

長谷川利行が描いた義父の絵と政恵の絵が一緒の場所あれば良いなと思うぐらいは、義母なら許してくれると思う。

 

つか長谷川利行が描いた義父の肖像画がどこにあるのだろう。

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20190817233411j:image

政恵は大阪の実家に仕送りを続けたのに、死後遺族は金だけ受け取って遺骨は拒否。

出生届が出されていなかったのに女学校出と言っていた政恵のことが気になっている。

良い言葉遣いだったそうだし、義母がおばあちゃんはなんでも知っていると言っていた政恵。

この政恵が本名なのかもわからないけど、義父が横江政恵と墓標に書き、熊谷家の仏壇にある位牌でも裏に横江政恵と書いてある。

でも新聞記事では絹子、サロン春での源氏名は良江。

写真は同一人物と思われるけど、今熊谷一族で彼女が妻となっていた時代を知る人は熊谷儀一さんだけになってしまった。

 

大阪のサロン春のマッチ箱の写真はあるが、現物は既に誰かに買われてて、右側一番下の政恵そっくりな若い女性の源氏名は不明。

f:id:TokuheiKumagai:20190817230137j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190817230142j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190817230153p:image
f:id:TokuheiKumagai:20190817230200j:image

本棚の空間が消える

私の本棚を空けたんだけど、いつのまにか本が詰まっている。

夫が昭和30年代の教育漫画のシリーズを置いたりしているからだけど、子守と家庭教師を子どもにつけられていた家にしては何も言われないんだと思ったので聞くと、家族でホッパーパトロールやアトム、狼少年ケンなどのテレビアニメーションも観ていたそうだし、義兄が漫画を読んでいても叱られてなかったそうだ。

私もテレビのアニメーションを観て育ったし、年上の従兄の漫画雑誌を幼稚園児の頃には読んでいたけど、同世代にも漫画は絶対にダメだとかテレビも買ってもらえない家庭で育った人もいる。

で、夫と義兄が漫画を読める生活環境だったことを、あら大丈夫だったんだ義父様は明治生まれなのにと思ったけど、親の反対を押し切って画家になった人だったからそれもありかと古い学習漫画を眺めながら片手に納得している。

月が綺麗だから車で本郷台をぐるりとまわったらタイガースのユニホーム系を着た親子連れやジャイアンツのユニホーム系を着た家族たちが歩いていた。

阪神巨人戦があったのかな。

f:id:TokuheiKumagai:20190816231308j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190816231312j:image

 

 

 

 

終戦の日

育児中は終戦の日あたりに、水でこねた小麦の粉をグラグラした鍋に落として作るスイトンを食べさせていたけど、栄養考えて具を入れるから美味しい料理となってしまい、まぁ戦争があったという資料が転がっている環境で育てたから良いかなと。

おから料理も私は肉と野菜を入れたのを作るから不味いものにならなかったし、今ではおからは美容食だ。

今日は浅草に友人と行き、久しぶりに洋食のヨシカミでハヤシライスを食べた。

http://www.yoshikami.co.jp/info01.html

ヨシカミは戦前から浅草にある洋食屋さんで、かつては市川にも店舗があったけど今は浅草だけ。

カウンターに座りボワっと鉄のフライパンの中に火が入り肉が焼かれるのを見るのが昔から好きだ。

オムライスをトントントンとフライパンの柄を叩いて形造るのも昔と同じで嬉しくなる。

ハヤシライスのデミグラスソースの濃さは大人の味で、私は子どもを連れてきたことがない。

人気店となり人が並ぶので育児をしながら優雅に食べる店ではなく、洋食屋の雰囲気込みで楽しむ店だと思っている。

若い頃、火曜日のランチが好きだったと話していたら今も昔と同じローテーションのランチメニューだそうだ。

じゃあ月曜日はビーフシチューで火曜日はトンテキで、今度はランチがある平日に来ようねと友人と約束した。

 

私が上京してきた頃は浅草はまだ闇市の痕跡が残っていて、浅草寺花やしきの間には服飾をうる簡易な作りの店が並び、ヨシカミのと浅草六区の通りの間には蚤の市と名がついたテントの不思議な空間があった。

そこには古道具屋が多く入り、戦前のものを見て回れた、元ヒッピーだったという店主はインドなどを往復して精油やインド仏教の道具や楽器に、大麻と味が近いという不思議なタバコ、シヴァの指輪や、豆の中に象牙でできた象がたくさん入っているものなどを売っていた。

その大きなテントは六区の最初の再開発、浅草ROXビルを建てる時に資材置き場にする為に立ち退きとなり、浅草ROXの地下には糸井重里の茶の店、紅孔雀が入ったけど水にこだわったその店はいつのまにか消えたし、関西から東京に殴り込んできた吉本劇場もいつのまにか違う施設となっていた。

浅草は私が上京してきたから何回も再開発をしているような気がするけど、お洒落なビルを建ててその上をホテルにするのが今の流行りかな。

 

終戦の話しに戻すと、浅草寺の本堂は関東大震災の揺れに耐え火もつかなかった。

なので浅草の人たちは観音様の加護を信じて東京大空襲の日に浅草寺の本堂に逃げ込んだ。

しかしB-29は情け容赦なく焼夷弾を落とし、浅草寺の本堂に逃げ込んだ人たちは共に焼け死んだ。

その慰霊碑には詳しいことが書かれていないが、旧浅草区は焼け残った場所の方が少ないぐらい焼かれて百貨店の松屋は鉄筋コンクリートであったけれど、三階と四階だったかなに火が入り窓から飛び降りて死ぬか中で死ぬかだったと聞いている。

空襲後に浅草松屋の屋上から撮影した写真を早乙女勝元先生に見せていただいたことがあるが、鉄筋コンクリートの建物がポツポツと残るだけの焼野原だった。

隅田川の対岸の今は黄金のアレで有名なビルにはビール会社があり、そこに逃げ込んで助かった人にはあったことがある。

復興小学校と呼ばれる関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリートの校舎に逃げ込んで助かった人もいれば火の侵入を許して焼けた人たちもいた。

できればそれは体験したくないし誰にも体験してほしくないが、今も戦火の中で暮らす人がいる。

それが現実だけど、敗戦後から74年も戦争をしていない国で子育てができた私は幸せだと思う時もある。

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20190815224912j:image


f:id:TokuheiKumagai:20190815224953j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815224940j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815224949j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815232847j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815224908j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815224918j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815224944j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190815224902j:image

孫がきたりて

f:id:TokuheiKumagai:20190814222103j:image

婿養子に行った息子がお盆休みなので遊びに来た。

息子夫婦は交際時期谷根千もデートコースだったので馴染みの店があり、孫を私たちに預けて食事に行ったりイナムラショウゾウのケーキや、ねこのしっぽを買ったりしてた。

孫は人見知りを覚えて最初はぐずついたが、アンパンマンのパンや、乳幼児用のコップのまぐまぐで水分をとったりできるようになり、預かるのが大分楽になった。

孫は生まれた時から猫がいる環境で育っているので、我が家の猫とも馴染んでいる。

そして、孫からしたら撫でているつもりだろうけど、それは叩くと引っ張ると毟るってことだよってなことをされても大人しく耐えている猫たち。

 

最初の一発でわらわらとそばに居た猫たちは逃げたが、最長老の白黒のゴンちゃんは孫相手にゴロゴロいい、しっぽを変に曲げられた時は困った顔をしていたが、そばに居続けた。

猫たちからしたら、たまに預けられる猫なんだろうな孫は。

我が家の一番の若手新入りのノルウェージャンのノルルは若いので好奇心満々で孫を見ているが、一度触られてからは絶妙な距離でそばにいる。

ハイハイ速度も速くなったけど、ノルルの方が早いので逃げ切る、そして孫を観察する。

 

今日は息子夫婦の黒猫のくーちゃんが付いてきてないけど、くーちゃんと仲の良かったフーちゃんが死んでしまったので、くーちゃんが探したら可哀想だから家でのんびりお留守番で良い。

最初は子猫で留守場をさせるのは不安だったけど、くーちゃんも大人になって今は7キロあるそうだ。

孫は3キロ程度で生まれたのに10カ月で10キロまで大きくなった。

母乳もあまり飲まなくなったそうだ。


f:id:TokuheiKumagai:20190814222059j:image

f:id:TokuheiKumagai:20190814222107j:image

お盆なので孫が来るらしい

f:id:TokuheiKumagai:20190814003303j:image

裏の墓場、昨日までは暑いという悲鳴のような会話が台所に立つと漏れ聞こえてきたが、今日は台所のエアコンを作動せずに済む程度の暑さだったからか、小さな子たちがはしゃぐ声が聞こえてきた。

上野の山の葵を頂く寺が管理する墓地なので雑草もなく枯れた花はいつのまにか片付けられるし、幹線道路に面してないので煤煙もあまりなくお参りにくる家族は結構楽だと思う。

それでもたまにゴシゴシと綺麗に洗う方がいると思うと、暫くしたら墓じまいされることがある。

大抵女性が墓じまいをしているので、女性の寿命や結婚相手が戦死した世代とか色々想像をしてしまう。

女友達でひとり娘だったりしても墓じまいを悩んでいたり、姓が違う血縁にいわゆる良い場所にある墓地を譲り、端っこに自分たちの代々の墓石を残して欲しいと頼んだのもいる。

 

私の母の実家の墓も継ぐはずの従弟が年代物の引きこもりとなったので嫁に出た従姉が管理料を払っている。

その墓は名古屋の八事霊園にあり盆になると五家族が集まり、江戸時代からの先祖と一緒に稲荷寿司と霊園前に戦前からある団子屋で買ったみたらし団子を食べた。

母の実家は毎月手入れに行っていたので、芝が綺麗だった。

が、母の実家が菩提寺以外の信仰宗教にハマってから少しずつ行事が変わっていった。

母の先祖は武家で木曽の材木を管理していたらしいが、明治維新で失業したが菩提寺を大事にしていたので寺が寺子屋の先生にしてくれて、学校が出来てから寺町の花を全部扱う家にしてくれたと聞いている。し、分家さんがよく調べていた。

これは調べてないが田園調布の商業地域でカフェを経営した母の叔父がいたとか、車を持っていたとか、子供用の自転車を持っていたとか貧乏では無かったようだし、母の従兄弟に金のかかる画家になったのもいるし、叔母は女子美に入ることになっていたと聞く。

祖母がワガママな末の娘に怒り床の間にあった日本刀を振り下ろしたら「動くな」と言ったのに娘が動いたために少しスパッツと切れて、その傷が残っていたけど刀は戦災で焼けたとかな話も残る。

 

戦前の生活は菩提寺が世話をしてくれたからだと祖母や母の兄弟たちは話していたのに、新興宗教にハマり菩提寺を疎かにして、悪いことがあると先祖の業がきたと新興宗教に寄付をしてを繰り返し、母方はボロボロだ。

 

とか愚痴。

 

父方の墓は父の本妻の息子が管理をしているし、二人息子が生まれたはずなので暫くは安泰だろう。

父の妹さんの家の墓石もいつのまにか増えていたし。

残念ながら父は外に子を作ったので私の腹違い兄から拒絶されて奥さんが眠る墓には入れず今は私の母と同じ墓に眠る。父は実家の墓に入りたがっていたが自業自得だ。

で、私の両親の墓は弟が管理している。弟にも息子がいるので暫くは大丈夫だろう。

 

私の息子は私が倒れた時に墓の心配をしていたらしく、今の夫と初めて会った時に菩提寺に案内されて会食をしたんだけど、「墓が駅から近い」とか、「良い墓がある」と喜んで私と夫の結婚を許した。それまでは私のダメンズウォーカーさを語り再婚を反対していた。 

でも墓で再婚しても良いになった。

 

なぜ墓?

私は散骨を頼んでいたのに墓?

とか複雑な思いはある。

 

息子は沖縄の旧家の次男の子、仏壇のある家の次男の子という立場で、沖縄は長男が一族の墓と仏壇を守るから離婚しなければ、私たち全員沖縄の墓に入るので墓問題とか我が家では全然話題にならなかったので、息子が墓を意識していたのは不思議だった。

息子の父親の家は家系図によると琉球武家の家で中国に使者が行くときの護衛の家。

それが島津藩に支配されたあと、小野何某という薩摩藩士が婿養子になり、苗字が中国用と琉球用と薩摩用の三つある。

家紋も隠したものがあり、沖縄では使わない。

小野何某の薩摩藩側の家系は断絶している。

でも薩摩藩関係なので明治政府の仕事にはありつけ。

中略

一家は沖縄戦の時は琉球王印のある家系図を持って逃げ惑っている。

中略

 

この薩摩藩の血が流れる家は琉球貴族の家からは格下で琉球銀行の役員の娘の義母と義父が結婚するときに一悶着あったそうだ。

 

そんな旧家に生まれた元夫は次男コンプレックスを拗らせていたけど、何かあると実家に頼れてて羨ましいものはあったな。

でも長男さんは跡取りとして厳しく育てられて高校も自由に選べず、大変だったと思う。

あと仏壇を持つ家の長男に嫁いだ女性も大変だったし。

本家は分家の仕事の世話もしてた。

なので、昔は沖縄にホームレスはいないとか言われてたのだけど、今の沖縄の貧富の差は激しい。

で、恵まれた家の次男なのに拗ねた元夫は面倒な人だけど、墓は沖縄にあるから息子はそちらの心配はしなくても良く。

私は海に散骨を頼んでいたけど、墓を気にしていたのね若いのに。

 

そんな古い頭の子だから明日は孫を見せに遊びにくる。

婿養子に行ったのだから、こちらの盆とか気にしなければ良いのにと思いつつ、孫は可愛い。

です。

 

 

 

 

暑いです

コミケ参加せず。

昨日は倒れた人が何人もいてニュースにもなった。

昔、晴海でコミケをやっていた頃と比べたら会場内は快適になったとは思うが、外はあの頃より暑いし参加者も増えている。

死者が出なくて良かったと心から思う。

写真は明石の大蔵海岸。

f:id:TokuheiKumagai:20190812223408j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190812223405j:image

 

昔、もう父がいない明石に母と娘と息子を連れて遊びに行き、息子はホテルで留守番をして、私と母と小学生の娘、私の幼馴染とその娘、その子は娘と同い年で赤ちゃんの頃から毎年遊んでいて幼馴染として今も互いに神戸と東京を行き来している。

つまりよく知った身内で明石の花火大会に行った。

それまでは市役所で花火大会が開催されていたが、朝霧の海を埋め立てた大蔵海岸で初めての花火大会となった。

海岸に行くには朝霧駅から歩道橋を渡らないと行けない。駅から近い歩道橋は一箇所、明石側に歩けば海岸に抜けられるトンネルがあるが、案内板は歩道橋を示していた。

私たちは歩道橋に入ったが作りを知っていたので明石側を歩いた。明石側は右側になる。

左側を歩いたら奥はエレベーターホールになっていて右側に合流しないといけない。

私たちは右側を進み、途中で詰まった。

子は小さい。母は老いが出ていたが、娘らの空間を私たちは意地でも確保して進んだ。

奥は予想通り人が詰まっていた驚いたのが海岸側からも人が入ってきてて、階段を降りるに降りられない。

それでも右側を確保していたので子と母と私たちは手すりを掴めた。花火が始まっていて、エレベーターホールの前の警備員は多分立ち止まるなと叫んでいたと思うがホールは花火を見るに良い場所でもあったので、詰まった人たちは身動きできない。

私たちはなんとか階段を下り、空間を得た。

花火とは違う変な音がした。

が、私たちは登る人降りる人で混雑する場所から離れたくて明石側に歩いて行き、砂浜に座って花火を眺めていた。

なぜか救急車のサイレンが次々と聞こえたが浜国道と国道二号線の合流地点でもある大蔵海岸近辺は渋滞しやすい。

サイレンの音はどんどん重なるが花火は美しかった。

花火が終わり、なんか朝霧駅方向が変に混んでいるから私たちは明石駅に向かって歩いた。

国道は渋滞していた。

明石の銀座のカフェーでお茶をして、他の友人に電話をして色々知った。

友人母娘はお父さんが車で迎えに来ることになり、私たちは明石駅近くのホテルでテレビを見た。

 

 

明石の花火大会の会場と動線コミケより狭いし、人数もコミケより少ないのにあのような事故が起きた。

 

コミケ参加者は色々言われているが意識が高く、スタッフもよくやっている。

 

私が不安に思うのは来年の東京オリンピックだ。

学位のためのボランティアや中学高校から動員されたボランティア、好きなイベントのために集まっているコミケのボランティアとは異なると思う。

 

言葉が通じていた明石の花火大会ですらあの惨事が起きた。

かつて隅田川永代橋が花火大会の時に崩れて多くの人が亡くなった。

空襲の時、関東大震災の経験者もいたのに、言問橋の惨事があった。

 

オリンピック会場の多くは埋め立て地で橋を渡る。

言葉や交通ルールが異なる人たちが集まる。

それだけでも不安を私は感じるし、夏は暑い。

ミストだ、打ち水だと焼け石に水の対策で大丈夫なんだろうか。

 

私の性格もあるが、不安だ。

 

大久保一郎遺作展

毎年夏になると巡回しているけれど、タイミングが合わず行けてない大久保一郎画伯の遺作展。

大阪商船の船が徴用されて沈められていく時代に、沈んでいく様子を生き残ったものの証言を元に描いたと伝わる。

 

父の弟の大は大阪商船の大仁丸で戦地に向かう途中、海に消えた。昭和19年2月20日八重山列島沖で被雷沈没。

大仁丸は本来ならばインドに向かう客船で立派な船だったそうだ。

 

戦後、戦友が焼け残っていた祖父母宅を訪れて沈んだ後一緒に泳いでいたが気がついたら叔父は消えたと伝えてくれたそうだが、動転した祖父母は戦友を追い返した。

漁村であった神戸市長田で育った叔父は泳ぎが得意だった。

数えで16歳の息子の戦死は受け入れられるものではなかった。祖父は酒に溺れていった。

私には優しい祖父だったが、酒が入ると変わる時があった。

背負って長田港に連れて行ってくれたし、一緒に海を眺めたが、その頃は戦死とかはわからなかった。

そこは昔は泳げたそうだが、昭和40年ごろは汚かった。

 

大仁丸の最後の様子はよくわからないが、叔父は戦友としばらく泳いでいたのだから助かった人も多いかも知れないし、ごく僅か生き残った1人が祖父母を訪ねて追い返されたのかも知れない。

今なら高校生ぐらいの男子が戦友として最後の様子を伝えに遺族宅を訪ねた時代。真面目な子どもが兵隊に志願した時代。

私はそれを経験したいとは思わない。

 

最後の様子を絵にした大久保一郎画伯。

残念なことに発見されてから修復されている絵は30あまり。

大仁丸の絵も写真もないが、もしかしたらどこかの倉庫に眠っているかも知れない。

f:id:TokuheiKumagai:20190811211117p:image