熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

終戦の日

育児中は終戦の日あたりに、水でこねた小麦の粉をグラグラした鍋に落として作るスイトンを食べさせていたけど、栄養考えて具を入れるから美味しい料理となってしまい、まぁ戦争があったという資料が転がっている環境で育てたから良いかなと。

おから料理も私は肉と野菜を入れたのを作るから不味いものにならなかったし、今ではおからは美容食だ。

今日は浅草に友人と行き、久しぶりに洋食のヨシカミでハヤシライスを食べた。

http://www.yoshikami.co.jp/info01.html

ヨシカミは戦前から浅草にある洋食屋さんで、かつては市川にも店舗があったけど今は浅草だけ。

カウンターに座りボワっと鉄のフライパンの中に火が入り肉が焼かれるのを見るのが昔から好きだ。

オムライスをトントントンとフライパンの柄を叩いて形造るのも昔と同じで嬉しくなる。

ハヤシライスのデミグラスソースの濃さは大人の味で、私は子どもを連れてきたことがない。

人気店となり人が並ぶので育児をしながら優雅に食べる店ではなく、洋食屋の雰囲気込みで楽しむ店だと思っている。

若い頃、火曜日のランチが好きだったと話していたら今も昔と同じローテーションのランチメニューだそうだ。

じゃあ月曜日はビーフシチューで火曜日はトンテキで、今度はランチがある平日に来ようねと友人と約束した。

 

私が上京してきた頃は浅草はまだ闇市の痕跡が残っていて、浅草寺花やしきの間には服飾をうる簡易な作りの店が並び、ヨシカミのと浅草六区の通りの間には蚤の市と名がついたテントの不思議な空間があった。

そこには古道具屋が多く入り、戦前のものを見て回れた、元ヒッピーだったという店主はインドなどを往復して精油やインド仏教の道具や楽器に、大麻と味が近いという不思議なタバコ、シヴァの指輪や、豆の中に象牙でできた象がたくさん入っているものなどを売っていた。

その大きなテントは六区の最初の再開発、浅草ROXビルを建てる時に資材置き場にする為に立ち退きとなり、浅草ROXの地下には糸井重里の茶の店、紅孔雀が入ったけど水にこだわったその店はいつのまにか消えたし、関西から東京に殴り込んできた吉本劇場もいつのまにか違う施設となっていた。

浅草は私が上京してきたから何回も再開発をしているような気がするけど、お洒落なビルを建ててその上をホテルにするのが今の流行りかな。

 

終戦の話しに戻すと、浅草寺の本堂は関東大震災の揺れに耐え火もつかなかった。

なので浅草の人たちは観音様の加護を信じて東京大空襲の日に浅草寺の本堂に逃げ込んだ。

しかしB-29は情け容赦なく焼夷弾を落とし、浅草寺の本堂に逃げ込んだ人たちは共に焼け死んだ。

その慰霊碑には詳しいことが書かれていないが、旧浅草区は焼け残った場所の方が少ないぐらい焼かれて百貨店の松屋は鉄筋コンクリートであったけれど、三階と四階だったかなに火が入り窓から飛び降りて死ぬか中で死ぬかだったと聞いている。

空襲後に浅草松屋の屋上から撮影した写真を早乙女勝元先生に見せていただいたことがあるが、鉄筋コンクリートの建物がポツポツと残るだけの焼野原だった。

隅田川の対岸の今は黄金のアレで有名なビルにはビール会社があり、そこに逃げ込んで助かった人にはあったことがある。

復興小学校と呼ばれる関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリートの校舎に逃げ込んで助かった人もいれば火の侵入を許して焼けた人たちもいた。

できればそれは体験したくないし誰にも体験してほしくないが、今も戦火の中で暮らす人がいる。

それが現実だけど、敗戦後から74年も戦争をしていない国で子育てができた私は幸せだと思う時もある。

 

 

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