熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷登久平とバリベア会 官僚の油絵の会の先生

かつて永田町にあった官僚たちの絵画を学ぶバリベア会

会長は厚生省の太宰博邦さん。のちの事務次官

バリベア会には女性も所属していたが、彼女らは次々と良縁に恵まれ家庭に入った。

会誌には「このままでは女性がいなくなる」という記事もある。

永田町勤務の女性でも結婚したら家庭に入る時代。

 

メンバーが順調に出世をしていくうちに、彼らに会うのを目的とした若手も入会希望で訪れた。と、成年してから会に所属していた熊谷登久平の次男である寿郎の記憶。

中には酔うと東大だと叫び、先輩から「ここでは珍しくない」と窘められた若手もいたそうだ。

寿郎に対して出自を質問し、整備士だと答えると露骨に馬鹿にした若手はバリベア会で長続きせず、後に汚職事件を起こしたとか。

 

会員には画家になりたくても親の意向で官僚にならざるを得なかった人もいた。

 

登久平は豪商の跡取りとして育ち、中央大学に進学しながら画学校にも通い、大学卒業後に父の求める進路を選ばず勘当された。

その経験がバリベア会の優しく楽しい先生となったのかはわからないが、会員には慕われていたようだ。

 

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バリベア会。
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美人さんの肩に手を置く熊谷登久平。
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バリベア会三十周年誌。

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バリベア会始まりのエピソード。

戦後の若手官僚たちの苦労も読める。

夫の記憶では戦後の遺族への対応や、未亡人への職の斡旋も彼らの仕事だった。

 


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義父熊谷登久平追悼誌。
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個展の熊谷登久平


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踊る熊谷登久平
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パンツ一丁で踊る熊谷登久平。
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太鼓を奏でる熊谷登久平

#岡倉天心 が住んだと伝承されてる アトリエ 竹屋敷 の図面青焼き

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森まゆみさんたちが発行されていた地域誌 #谷根千

その中に日本美術院が谷中に帰ってきた顛末が書かれている。

現在の日本美術院東京藝術大学学長の久保田鼎が所有していた。

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我が家の伝承。

岡倉天心の家だったから熊谷登久平は欲しがり、岩手県千厩に住む父に援助をうけ、岡倉天心のアトリエ跡を購入した。

伝承では持ち主が大工に金を借り、一時期大工の持ち物だったが、下手にバラバラに転売されたり長屋にされたら困るから義父が買ったとかな美談的な、協力美術院的な美談だけど、伝承だからなあ。

 

登記簿で遡ると、藝術大学学長久保田鼎が誰かから買い取った記録はある。

一度竹屋敷部分を多分金のために手離している。

それを久保田鼎は買い戻し、死ぬまで土地所有権を持ち、本籍地の奈良に住む、多分養子が相続している。

久保田鼎は妻に先立たれ、子もいなかったので養子をとったと先日アップしたリンク先の論文にある。

 

久保田鼎と岡倉天心の関係は色々あったようだが続いていたようなので、我が家の伝承、天心が藝術大学に教えに行く時に滞在したアトリエ邸の可能性もあるが、証拠がない。

 

登記を調べに行って呆れ返ったが、なんと竹屋敷と呼ばれた銅ぶき屋根のアトリエ邸は登記されてなかった。

驚いて色々調べたら、建物に固定資産税がかかるのを嫌がった人たちが登記をしなかったのが戦前まで続いていた。とか冗談でしょ。

 

この土地で初登記されたのは義母が熊谷登久平の死後に税金対策で建て直した現在の家だった。

びっくり。

法務局の係員さんは昔は良くあったとおっしゃる。

 

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我が家に保管されている竹屋敷の図面。

アトリエ部分にはアトリエとある。

夫が聞いた話では岡倉天心が東京で直接弟子に教えたのもこの邸だという。

でも証拠がない。

また、日本美術院の庭との間に木戸がありそこを開けて横山大観が入ってきて、縁側で義父と飲んでいたりアトリエを懐かしんでいたとの伝承が我が家にはあるが、それを見ていた義母と義兄は既に故人。

 

今時、青焼きの見取り図も珍しいので、義母と夫たちが土地を相続した時の記録も含めてアップします。

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これが不動産屋さんが言うところの #甲区 に名を刻むもの。

 

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#シド・ミード展 #東京藝術大学学長 #久保田鼎 所有地の痕跡

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昨日行くつもりでしたが、雨が降ってきたので諦めたシド・ミード展。

その会場前にある典型的なおばちゃんのママチャリが我が愛車。夕暮れ前の写真です。

 

 

午前、義父の熊谷登久平が東京航空計器で本当に副社長をやり、監査になったのかを調べていた。

今は三冊の書籍でその記述を読んだが出典が書いてない。

独立美術の冊子での報告なのか、何かの雑誌に書かれたのかもわからない。

ネットであちこちにの資料室を探したが見つからない。

電子化文書で探すの大変。

 

一応、東京航空計器から贈られた勤続記念のアルバムは我が家にあり、熊谷登久平宛の文字もある。

でも役職がわからない。

もうね、書籍に載ってますのでって、東京航空計器に問い合わせた。

後日返答を頂けるそうだ。

東京航空計器は社史出してなかった、技術史とか開発記録や重役皆戦犯容疑で大変だった時の記録を米軍側からの記録ではなく、回顧録で読みたかったな。

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この記述だと今まで読んだ記録と入社時期が違うし。

 

などを調べる過程でもう一つの疑問、本当に昭和三年から下谷区谷中上三崎南町五十一の一に住んでいたのか、土地は日本美術院のものだったのか、東京藝術大学学長 #久保田鼎 の物だったのか、熊谷登久平の次男である夫が聞いている一度大工さんの持ち物になったとはどういう事かがとても気になり、法務局に調べに行ってみた。

 

調べてみて、いかに久保田鼎さん大変だったのかとか、養子をもらったとあるけど、多分この人が養子な人の名が出てきたり、岡倉天心横山大観がいかに心酔していたか、愛だわ愛。

泣きながら日本美術院のことを語り歌った音声記録が残っているけど、愛だ。

など。

あとで紙資料とデジタル資料にあった記録をまとめます。

 

ここ甲区に名を刻んでいるのは夫なのは間違いなかったわ。

他の町会の方から借地と言われたのが気になっていたし、江戸時代の記録では瑞輪寺の敷地だし、義父が亡くなった時に元の屋敷を解体して日本庭園を潰した時に、「瑞輪寺に許可を取ったのか」と怒鳴り込んで来た人がいたと当時九歳だった夫の記憶にあるし。

 

不動産屋が売れ電話をかけてきたり、営業で直接きたりもするけど、旧借地権も売れるからなぁ。

とかも思っててごめんなさい。

 

不動産屋さんは毎度こういう記録を読んでいるんだ。息子が宅建を取ろうとしてるけど、仕事でこれ読めるなら楽しそうだなとかも思いました。

 

テンション上がったまま、帰路でやっているシド・ミード展を鑑賞。

良かったあ。

題名忘れたけど、自我を持ったロボットのジョニーの映画が好きだった。

そのデザイン画を見られたのは幸せだわ。


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#東京大空襲 を刻みこんだ石碑


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我が家は台東区谷中にあり、上野の山のてっぺんに近い場所なので空襲では焼けなかったし、関東大震災でも被害がなかった場所です。

昭和46年、今の家に建て替える前は竹屋敷と呼ばれる平屋で明治時代の建物でした。

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昭和30年代の熊谷家の裏。

勝手口はこちらにあり、御用聞きはこちらから入ったそうです。

この辺で戦争被害があったのは明治維新後の上野戦争、官軍と幕臣彰義隊が戦った時になります。

 

夫と付き合い始めて案内された熊谷家裏の瑞輪寺墓地の中にある東京大空襲の慰霊碑。

 

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廟で守られている慰霊碑。

この塀の向こう側はクチナシの花の生垣で、花の時期は香りがたちこめます。
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70年以上風雨にさらされ読み取りにくくなった「墨田区江東橋一丁目戦災地蔵尊 昭和二十年三月十日」の文字。
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廟の中の石碑には、
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「呼鳴昭和二十年三月九日夜米国B29大挙帝都大空襲火ノ海ト化シ江東橋一丁目町会犠牲者山中恒清氏ト町会員二百十六名ノ戦災死者相生ジ悲惨其ノ極二達シタ 将来戦争再発ナキ様記念シ其ノ御霊ヲ此ノ地二祀ル

昭和二十八年八月

施主 株式会社 吉田製作所

        社長 山中卯八

       ○○○○」

と、多分刻まれている。

申し訳ない、強度の近眼プラス老眼です。

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墨田区の方を見つめている地蔵尊

廟に護られているので状態が良いです。

山中卯八の文字に生存している証の朱色が入っています。


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いつもお世話になっているアプリ

#大江戸今昔めぐり さん

から江東橋一丁目あたりの江戸時代の地図を見る。

江東橋一丁目の信号付近は町民地ですね。

 

https://blog.goo.ne.jp/12240106/e/4a7ffa571992785c8c2e9ae47c2daa50

 

ネットで見つけた江東橋あたりの被害状況の記録。

下は現在とグーグルビュー

戦争で焼けた地域には見えませんが、死屍累々でした。
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上空からの現場。

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html

総務省墨田区の被害についての記述。

 

下は江東橋一丁目にある株式会社吉田製作所のHP。

社長さんの苗字が山中さん、
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ラインからの報告が写ってしまった。

 

この碑が建てられたのは進駐軍から日本が独立した昭和二十七年のよく年の八月。

終戦記念日あたりでしょうか?

昭和二十七年の講和条約後、多くの慰霊碑が建立されています。

墨田区は元々工場が多く、昭和二十八年頃(1953年)には戦前を上回る工場が出来ていた。朝鮮戦争特需もあった時代だ。(http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html)参照。

 

なぜ、墨田区江東橋一丁目の慰霊碑が台東区谷中の四丁目の墓地にあるのだろうか。

吉田製作所の敷地内でも良いのではないだろうか。

 

朝鮮戦争特需にわいた東京で戦争再来が無いように祈る石碑。

夫が幼い頃は沢山の人が慰霊碑を訪れたそうだ。

しかし、年々訪問者は減り、今ではたまに誰かが線香をあげているが、三月十日に線香をあげるのは我が家だけになっている。

 

大空襲で全滅した家もあろうし、七十年以上経った今、焼け野原の記憶を持つ人も減った。

空襲で焼けた下町には慰霊碑が多くあったが、再開発で行方が分からなくなった碑が、私が取材調査をしていた戦後五十年の頃にも残念ながらあった。

それを記録していたグループも当時はいた。

 

再開発での所在地変化があるかもしれないと、考えての台東区谷中の墓地への建立なのだろうか。

 

バブル前だったか都市部の墓地が足らなくなった頃に、管理費が払われなくなった墓地は看板を一定期間立てて撤去の告知をすれば墓地をあけられるようになった。

それまでは新聞などで告知をしてなどの面倒な手間暇がかかり、ある程度の寄付をした墓であればかなりの撤去猶予があった。

 

なので、震災や開発で儚く変わる街中より、墓地を慰霊碑の建立地に選んだのではないだろうか。

 

法改正されてから墓地は儲かるものとなり、歴史に名を残す人の墓にすら撤去の立て札が刺され、更地にされまた売られるようになった。

 

少子化により墓じまいも増えた。

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瑞輪寺の墓地も今は空きがある。

近所の寺では樹木葬も始めた。

これから団塊世代が埋葬される時代がくる。

そうしたらまた墓が足らなくなるのだろうか。

 

東京大空襲墨田区江東橋一丁目の慰霊碑は管理費が払われているようだし、たまに誰かが来ている。

 

戦争再発を憂う碑が、憂うままで語り続けられるように私は願う。

 

NHKの #古地図で見る東京大空襲

https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/tokyodaikushu/

 

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左上の白い場所が台東区の上野公園や谷中界隈

右下が墨田区の江東橋一丁目界隈

 

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墨田区江東区は殆ど焼けてます。

台東区の上野公園からの山手線の内側の高台は焼けてません。

上野桜木は東京市初期の高級住宅街でもあり、各家庭の敷地が広く塀もあります。谷中は寺町で延焼し難い作りになっています。

 

 

 

ぶらぶらあちこち #藝大の猫展 など。

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文京区千駄木台東区谷中の境界線にある、よみせ通りのイベントで楽しんだ昨日、日焼けしました。

日焼け止めクリームを塗り、帽子を被っていたのですが今日は昨日よりヒリヒリ。

シミになる。

 

昨日は #藝大の猫展 の最終日。

大好きな #俺つしま さんがゲストに居るうえに、ガチャガチャも会場にあるそうだし、藝大出身者の猫も観たいので夕刻に自転車で行きました。

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可愛い。
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猫展では、この白猫さんだけが撮影可。

ぐるりと撮影しました。

ジャパニーズボブテイルさんです。
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上野公園の子供向け遊具コーナーを遠くから撮影。

親子連れで賑わっています。

谷中の児童公園も毎日親子連れがいますし、我が家の前の道路ではバトミントンで子どもが遊んでいたり、キャッチボールをしていたりしますが少子化は進んでいます。

私が育児をしていた頃の上野公園はもっと親子連れがいましたし、ミニ遊園地でも遊具に並びました。
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上野公園の歩道に並んでいるブルーシートの何か。

昔は木立の中にブルーシートハウスが並んでいましたが、取り締まりが厳しくなりホームレスの方はこうやって荷物を管理しているようです。

平日は炊き出しがあります。


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鳥さん。
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かつて不遇だった洋画家の長谷川利行と義父熊谷登久平はここで二人展を開き、先人たちの目にとまった。

 

http://www.taito-culture.jp/city/sakuragi/japanese/guide_01.html
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ランチ食べに行きたいな。

 

涼しくなってから食材を買いに日暮里駅の崖下側のスーパーに行くと、こちらでもお祭りをしていました。


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下の写真は今日なんとなく出かけた西日暮里駅の谷側。

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JRと、舎人ライナーと、千代田線があります。

西日暮里駅は今は山手線の中で一番新しい駅で、地下鉄千代田線から山手線と京浜東北線へ乗り換えるポイントです。

なのでサラリーマン向けの飲み屋が多いですが、再開発が始まっていて、私が好きなマンボウの腸の塩焼きを出す店は無くなっていました。

我が家から一番近いケンタッキーフライドチキンもここでしたが今はなく、観光客が多い上野の不忍池が一番近いという。

観光客を避けて自転車で走るのは大変なんですよね。

車で買いに行くこともあるけど、夫が車で待ってて私が会計を済まします。
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今日は暑うございました。#文京区で遊ぼうとしました。

某日、文京区の不動産屋さんで商店街の理事の方の「文京区には相応しくない」的なハイソな発言に感動したので、文京区千駄木に出来るマンションのポエムを確認してみました。

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価格はこんな感じ。

私には買えません。

銀行は貸してくれると思うけど猫が多いのと駐車スペース3台分ないと困るので、マンション全体で4台分なのは厳しいです。

そのかわり、根津駅まで5分もかかる我が家と違い千駄木駅まで4分の利便。

 

バス亭も多いし、美味しい肉屋さんと八百屋さんが近くコンビニもあります。


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売り項目、全然ポエム感がありません。

事実が書いてあるだけでした。

オープンハウスさんのマンション説明には現実しかないのでしょうか。
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山手線内の土地は東京都の中で3パーセントですって。

正直知りませんでした。

考えてみましたけど山手線一周が34キロぐらいでしたっけ?

そしたら知人の別荘が立ち入り禁止のママの三宅島の一周とそれほど変わらない感じのうろ覚え。

でも3パーセント?

江戸川区から奥多摩沖ノ鳥島までの海も含んだ範囲の3パーセントではなく、土地。

 

その中に皇居や公園や施設、企業の土地などがあるわけです。

私有地はたぶん少ない。

 

そりゃ土地目当ての殺人も起きるわけですよ。

新橋の大家さんの土地建物が売られた後遺体が見つかったりするのは理不尽ですよ。

土地目当てで人を殺すのは住みたい人ではなく、転売したい人でしょ。

土地値上がりすぎてますよ。

 

谷根千の地上げは夫によるとエグかったそうです。

私がお世話になった朝日新聞団子坂店の奥様が火災で亡くなられたとき、私は一瞬地上げ屋を想像し、自警団とか言っていた千駄木極悪に泣き付こうかと考えましたよ。

犯人は私も良く知る10代の男の子でしたがね。


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マンションの立地は良いと思う。
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ただし、うちから車で4分の距離ですが、一方通行が多くて遠回りをして4分です。

細い道も多いです。

夫の幼馴染が亡くなりご子息が家を手放したのですが、ここより少し高台で芸能人が下見に来ていました。

結構な屋敷でしたので、相続税がきつかったのかな。リーマンショックごろが良かったと夫たち地元生まれ育ちたち。


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電車での移動時間ですが、これは乗り換え時の路線から路線まで移動する時間を足しているのかしら?

 

私、大手町の乗り換え大嫌いです。

永田町も嫌い。

歩くんですもの。

私、一駅大手町に近い根岸駅からでも、この時間で東京駅にたどり着ける自信がないです。

足が悪いのもありますが。
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タクシーは便利です。

ここなら日医大で客待ちしているタクシーが直ぐに駆けつけてくれるでしょう。
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自転車があればスーパーでも上野松坂屋でも買い物先へも坂を下りたり登ったりする必要がない立地。

さほど低地でもない。

車が趣味とかバイクが趣味でなければ良いのではないかな。

なぜ、オープンハウスさんが地元の有力者らしき不動産屋さんを怒らせるような文京区に相応しくない営業をしたのかが謎です。 

今マンションが売れないとの報道もありますが、それなのかしら。

 

 

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今日見つけた不動産屋広告。

例えば、この広告は許諾を得ているのかな。

私は素人だからわかりません。

 

うちが近所の電柱に看板を出していた時は月々管理していた所にお支払いをしていました。

 

谷根千は楽しい街です。

マンションは管理さえしっかりしていれば楽だと聞きます。

大学病院も近いし、欲しい人は買うでしょう。

 

今日は文京区と台東区の境にあるよみせ通りの祭りでした。

楽しかった。
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あの千駄木のコンビーフの腰塚のアメリカンドッグ。

滅多に売りません。

揚げたてアツアツを齧るとぶっといフランクフルトかな?がジューシー。

それで300円。

立ち食いしないで持ち帰ったら揚げたてハフハフが楽しめません。

立ち食い推奨。私はもちろん立ち食いしました。

気温33度とかの時間帯。

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製麺所のオム焼きそばに並ぶ人たち。

私も、文京区の西片の高台に住む国立大出の友人も並びます。

私たちの後ろも長蛇の列です。

暑いですが、ここのオム焼きそばは別格で並んでいるのは地元民が多いです。

観光客たちが呆れ顔で見ていました。

「あんたら、ここの味を知らないから並ばんで住むんやで」

暑かった45分並んだ。

1人1パックという現実が私たちを打ちのめしました。

私たち、それぞれ夫に「お昼ご飯はオム焼きそばよ」って言ってから出かけてきてます。

つまり私たちは夫の為に炎天下の中45分並んだんです。

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暑かった。
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昔、義母が店を持っていた千駄木すずらん通り。

車で送迎されていたそうです。

私は電動自転車でよみせ通り

 

私と友人は自分たちのお昼ご飯を入手する為に谷中銀座に向かいました。

馴染みのさとうさんで谷中メンチなどを書い、おばちゃんと雑談して製麺所に並んだ話をしたら、温度計を見せてくれました。

日陰のさとうさんで35度。

「日向は40度あったんじゃないの」

と、労ってくださいました。

製麺所の焼きそばが美味しいのはおばちゃんも認めていましたが「あそこの焼きそば用面を買って台所で作った方が涼しいでしょう」と。

だって甘い卵焼きと麺をよく知った人が焼く焼きそばは別格なんですもの。

暑かったし、夫の胃に入るけど。

でも大盛りだから分けてもらえるかも知れない。

と、思っていたら分けてくれました。

 

パンのリバティで注文していた品を受け取り、文京区の友人はコミュニティバスビーグルで西片に向かい。

私は前かご後ろカゴの電動ママチャリで三崎坂を登って帰宅です。

2人とも山の上に住んでいるから結構大変。

でも暮らしやすいからね。