その中に日本美術院が谷中に帰ってきた顛末が書かれている。
現在の日本美術院は東京藝術大学学長の久保田鼎が所有していた。
我が家の伝承。
岡倉天心の家だったから熊谷登久平は欲しがり、岩手県千厩に住む父に援助をうけ、岡倉天心のアトリエ跡を購入した。
伝承では持ち主が大工に金を借り、一時期大工の持ち物だったが、下手にバラバラに転売されたり長屋にされたら困るから義父が買ったとかな美談的な、協力美術院的な美談だけど、伝承だからなあ。
登記簿で遡ると、藝術大学学長久保田鼎が誰かから買い取った記録はある。
一度竹屋敷部分を多分金のために手離している。
それを久保田鼎は買い戻し、死ぬまで土地所有権を持ち、本籍地の奈良に住む、多分養子が相続している。
久保田鼎は妻に先立たれ、子もいなかったので養子をとったと先日アップしたリンク先の論文にある。
久保田鼎と岡倉天心の関係は色々あったようだが続いていたようなので、我が家の伝承、天心が藝術大学に教えに行く時に滞在したアトリエ邸の可能性もあるが、証拠がない。
登記を調べに行って呆れ返ったが、なんと竹屋敷と呼ばれた銅ぶき屋根のアトリエ邸は登記されてなかった。
驚いて色々調べたら、建物に固定資産税がかかるのを嫌がった人たちが登記をしなかったのが戦前まで続いていた。とか冗談でしょ。
この土地で初登記されたのは義母が熊谷登久平の死後に税金対策で建て直した現在の家だった。
びっくり。
法務局の係員さんは昔は良くあったとおっしゃる。
我が家に保管されている竹屋敷の図面。
アトリエ部分にはアトリエとある。
夫が聞いた話では岡倉天心が東京で直接弟子に教えたのもこの邸だという。
でも証拠がない。
また、日本美術院の庭との間に木戸がありそこを開けて横山大観が入ってきて、縁側で義父と飲んでいたりアトリエを懐かしんでいたとの伝承が我が家にはあるが、それを見ていた義母と義兄は既に故人。
今時、青焼きの見取り図も珍しいので、義母と夫たちが土地を相続した時の記録も含めてアップします。
これが不動産屋さんが言うところの #甲区 に名を刻むもの。