我が家は台東区谷中にあり、上野の山のてっぺんに近い場所なので空襲では焼けなかったし、関東大震災でも被害がなかった場所です。
昭和46年、今の家に建て替える前は竹屋敷と呼ばれる平屋で明治時代の建物でした。
昭和30年代の熊谷家の裏。
勝手口はこちらにあり、御用聞きはこちらから入ったそうです。
この辺で戦争被害があったのは明治維新後の上野戦争、官軍と幕臣の彰義隊が戦った時になります。
夫と付き合い始めて案内された熊谷家裏の瑞輪寺墓地の中にある東京大空襲の慰霊碑。
廟で守られている慰霊碑。
この塀の向こう側はクチナシの花の生垣で、花の時期は香りがたちこめます。
70年以上風雨にさらされ読み取りにくくなった「墨田区江東橋一丁目戦災地蔵尊 昭和二十年三月十日」の文字。
廟の中の石碑には、
「呼鳴昭和二十年三月九日夜米国B29大挙帝都大空襲火ノ海ト化シ江東橋一丁目町会犠牲者山中恒清氏ト町会員二百十六名ノ戦災死者相生ジ悲惨其ノ極二達シタ 将来戦争再発ナキ様記念シ其ノ御霊ヲ此ノ地二祀ル
昭和二十八年八月
施主 株式会社 吉田製作所
社長 山中卯八
○○○○」
と、多分刻まれている。
申し訳ない、強度の近眼プラス老眼です。
廟に護られているので状態が良いです。
山中卯八の文字に生存している証の朱色が入っています。
いつもお世話になっているアプリ
#大江戸今昔めぐり さん
から江東橋一丁目あたりの江戸時代の地図を見る。
江東橋一丁目の信号付近は町民地ですね。
https://blog.goo.ne.jp/12240106/e/4a7ffa571992785c8c2e9ae47c2daa50
ネットで見つけた江東橋あたりの被害状況の記録。
下は現在とグーグルビュー
戦争で焼けた地域には見えませんが、死屍累々でした。
上空からの現場。
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html
下は江東橋一丁目にある株式会社吉田製作所のHP。
社長さんの苗字が山中さん、
ラインからの報告が写ってしまった。
この碑が建てられたのは進駐軍から日本が独立した昭和二十七年のよく年の八月。
終戦記念日あたりでしょうか?
昭和二十七年の講和条約後、多くの慰霊碑が建立されています。
墨田区は元々工場が多く、昭和二十八年頃(1953年)には戦前を上回る工場が出来ていた。朝鮮戦争特需もあった時代だ。(http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html)参照。
なぜ、墨田区江東橋一丁目の慰霊碑が台東区谷中の四丁目の墓地にあるのだろうか。
吉田製作所の敷地内でも良いのではないだろうか。
朝鮮戦争特需にわいた東京で戦争再来が無いように祈る石碑。
夫が幼い頃は沢山の人が慰霊碑を訪れたそうだ。
しかし、年々訪問者は減り、今ではたまに誰かが線香をあげているが、三月十日に線香をあげるのは我が家だけになっている。
大空襲で全滅した家もあろうし、七十年以上経った今、焼け野原の記憶を持つ人も減った。
空襲で焼けた下町には慰霊碑が多くあったが、再開発で行方が分からなくなった碑が、私が取材調査をしていた戦後五十年の頃にも残念ながらあった。
それを記録していたグループも当時はいた。
再開発での所在地変化があるかもしれないと、考えての台東区谷中の墓地への建立なのだろうか。
バブル前だったか都市部の墓地が足らなくなった頃に、管理費が払われなくなった墓地は看板を一定期間立てて撤去の告知をすれば墓地をあけられるようになった。
それまでは新聞などで告知をしてなどの面倒な手間暇がかかり、ある程度の寄付をした墓であればかなりの撤去猶予があった。
なので、震災や開発で儚く変わる街中より、墓地を慰霊碑の建立地に選んだのではないだろうか。
法改正されてから墓地は儲かるものとなり、歴史に名を残す人の墓にすら撤去の立て札が刺され、更地にされまた売られるようになった。
少子化により墓じまいも増えた。
瑞輪寺の墓地も今は空きがある。
近所の寺では樹木葬も始めた。
これから団塊世代が埋葬される時代がくる。
そうしたらまた墓が足らなくなるのだろうか。
東京大空襲、墨田区江東橋一丁目の慰霊碑は管理費が払われているようだし、たまに誰かが来ている。
戦争再発を憂う碑が、憂うままで語り続けられるように私は願う。
https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/tokyodaikushu/
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左上の白い場所が台東区の上野公園や谷中界隈
右下が墨田区の江東橋一丁目界隈
台東区の上野公園からの山手線の内側の高台は焼けてません。
上野桜木は東京市初期の高級住宅街でもあり、各家庭の敷地が広く塀もあります。谷中は寺町で延焼し難い作りになっています。