昨日行くつもりでしたが、雨が降ってきたので諦めたシド・ミード展。
その会場前にある典型的なおばちゃんのママチャリが我が愛車。夕暮れ前の写真です。
午前、義父の熊谷登久平が東京航空計器で本当に副社長をやり、監査になったのかを調べていた。
今は三冊の書籍でその記述を読んだが出典が書いてない。
独立美術の冊子での報告なのか、何かの雑誌に書かれたのかもわからない。
ネットであちこちにの資料室を探したが見つからない。
電子化文書で探すの大変。
一応、東京航空計器から贈られた勤続記念のアルバムは我が家にあり、熊谷登久平宛の文字もある。
でも役職がわからない。
もうね、書籍に載ってますのでって、東京航空計器に問い合わせた。
後日返答を頂けるそうだ。
東京航空計器は社史出してなかった、技術史とか開発記録や重役皆戦犯容疑で大変だった時の記録を米軍側からの記録ではなく、回顧録で読みたかったな。
この記述だと今まで読んだ記録と入社時期が違うし。
などを調べる過程でもう一つの疑問、本当に昭和三年から下谷区谷中上三崎南町五十一の一に住んでいたのか、土地は日本美術院のものだったのか、東京藝術大学学長 #久保田鼎 の物だったのか、熊谷登久平の次男である夫が聞いている一度大工さんの持ち物になったとはどういう事かがとても気になり、法務局に調べに行ってみた。
調べてみて、いかに久保田鼎さん大変だったのかとか、養子をもらったとあるけど、多分この人が養子な人の名が出てきたり、岡倉天心に横山大観がいかに心酔していたか、愛だわ愛。
泣きながら日本美術院のことを語り歌った音声記録が残っているけど、愛だ。
など。
あとで紙資料とデジタル資料にあった記録をまとめます。
ここ甲区に名を刻んでいるのは夫なのは間違いなかったわ。
他の町会の方から借地と言われたのが気になっていたし、江戸時代の記録では瑞輪寺の敷地だし、義父が亡くなった時に元の屋敷を解体して日本庭園を潰した時に、「瑞輪寺に許可を取ったのか」と怒鳴り込んで来た人がいたと当時九歳だった夫の記憶にあるし。
不動産屋が売れ電話をかけてきたり、営業で直接きたりもするけど、旧借地権も売れるからなぁ。
とかも思っててごめんなさい。
不動産屋さんは毎度こういう記録を読んでいるんだ。息子が宅建を取ろうとしてるけど、仕事でこれ読めるなら楽しそうだなとかも思いました。
テンション上がったまま、帰路でやっているシド・ミード展を鑑賞。
良かったあ。
題名忘れたけど、自我を持ったロボットのジョニーの映画が好きだった。
そのデザイン画を見られたのは幸せだわ。