寝てる時の胸痛で無意識に変な動きをしたようで、腰がとても痛い。
尿管結石の痛みとは違い広範囲の擦り傷的な痛み。
自転車は乗れないなぁ。
先日、戦没画家のご遺族が池之端画廊にいらしてくださり、ご主人の叔父様の話しと作品の写真を見せてくださったので気になり「遺された画集 : 戦没画学生を訪ねる旅/野見山 暁治」を読み直した。
最初の大きな版を持っているけど書籍流に埋もれたままなので手軽な平凡社ライブラリー オフシリーズ (2004/6/9)版を中古で購入。
(Amazonで高値転売をされていて残念過ぎる。デジタル版も出せば良いのに。)
この「遺された画集 : 戦没画学生を訪ねる旅/野見山 暁治」の中に若い画家たちが徴兵回避のために美術教師となるも、昭和19年から徴兵されていくエピソードが重なる。
先日ご遺族にお会いした谷中清水町(池之端4丁目)生まれ育ち徒歩数分の美學(東京藝大)に学んだ生田目明さんもそう。
この昭和19年は先日入手した坪内正画伯の歓送会の寄せ書きにもある年号。
また昭和19年(1944年)義父の熊谷登久平(1901年10月2日生まれ)43歳が徴兵逃れでそれまでもいた国策会社の東京航空計器に改めて正社員として属した年でもある。義父は終戦時は44歳。
文系学生たちの26歳までの徴兵猶予(在学徴集延期/徴集猶予)がなくなった学徒動員が昭和18年。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3
西山, 伸. <研究ノート>徴集猶予停止に関するいくつかの間題について. 京都大学大学文書館研究紀要 2016, 14: 41-54
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/210102/1/kua014_041.pdf
医学生は旧帝国大学の医学生以外の徴兵猶予期間が短縮されていたうろ覚え。
↓でも旧帝国出身の医師でも前線で亡くなってたりする。
数年前まで東京都文京区本郷6-10-2にあった「東京大学戦没同窓生の碑」
昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年(満州事変 日中戦争 太平洋戦争)にわたる戦争で東京大学も多数の戦没者を出したが戦後50年のあいだその実数は不明のままであった。
このたび大学による学徒出陣の調査が行われ1,700人近い戦没者が明らかになったが その実数は2,500人にも達すると推定されている。
私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き 悲しみ 世紀がが変わる前に追悼の碑を建ててこの事実を後世に伝えるべく追悼基金を組織した
この「東京大学戦没同窓生之碑」は 大学正門前のこの地にお住みの方々から温かいお心をいただいて建立が可能になり 同窓生あい集って建立するものである
「避けがたい状況の下に 愛する人々のために一命を捧げた」若者たちのいたましくも悲しい事実を歴史に刻む碑であって 戦没同窓生への深い思いを「天上大風」という良寛の言葉に託した
今世紀最後の東京大学5月祭初日の今日 ここに同志あい集ってこの碑を建立し音楽と花を捧げ深い哀悼を世に伝えるものである
平成12年5月27日
医学部戦没同窓生追悼基金
メモ
徴兵令 第一章 総則 第一条 全国の男子年齢満十七歳より満四十歳迄の者
昭和十九年十一月一日から召集令状が届いたのは、満十七歳から満四十五歳まで。
戦争記録画
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%94%BB
メモ
恩賜財団軍人援護会では先に一家族から二人以上の名誉の戦死者を出した家庭に対し「護国亀艦」という牌額を贈り、家門の名を子々孫々にまでたたえようと彫刻家日名子実三氏に創案を依頼中であったが、この程靖国神社をいぶし銀地に浮彫し、横一尺、縦一尺一寸の黒漆塗の額に収めた荘厳な牌額が出来上った、同会へ現在までに報告された名誉の家庭は七百五十六(十七府県未着)あり、中に三人以上の戦死者を出した家庭が十一もあった、全国で約一千家庭に上る見込だが、調査が終り次第七月早々朝香総裁宮殿下の表彰状と共に地方長官を通じて贈ることとなっている。