熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

足立区の保木間の高射砲陣地の関係者さんたちへの申し訳なさと悔しさ。「丸 エキストラ 第3号-第5号

旧日本軍の高射砲 建設現場の地中から見つかる https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000220028.html

足立区で高射砲が見つかったとのニュースがあった。

これは足立区保木間の高射砲陣地の十二サンチのもので、B-29による直撃弾でその掩体壕の隊員が全滅し、戦後慰霊碑を作るときに埋めたと場所と聞いていた。

このニュース映像で使われてる当時の写真は私があちこちで自腹で収集してきたものだけど、語り継がれることを信じて渡した。

写真を預けてくれたご遺族や将兵の名はなしで展示されている。


その写真がしれっとテレビで流れた。
(笑)



で、保木間の十二サンチ高射砲陣地で被害が出たことは当時は軍事機密で、近隣住民に知られないよう極秘で葬儀は行われた。
そのため戦死者の棺桶も手に入らず、戦友たちが手作りをした。
遺骨は仲良い戦友が遺族に届けたが、それぞれ語るに切ない思いがあった。
内地のしかも帝都防空の高射砲陣地だから、守れなかったことへの慰霊や、都心からとぼとぼと歩いて北へ向かう人たちへの炊き出しの申し訳なさも話してもらった。

私が書くものは丸の若い読者には辛気臭いと不評であったしスペックを書けないとか馬鹿にされていたが、保木間の高射砲陣地のことは別冊丸にも少し書いてあるし、写真提供者の名も載せてある。
偉い人が私との口約束を忘れて無かったことにしても、私が保木間の高射砲陣地を書いた丸のバックナンバーは昭和館にある。
これは書いておいて良かったと、文章力ないし、グダグダだけど書いておいて良かった。戦後の慰霊碑記事はあったけど詳しいのは私が初出だからね。
これが耳に入ったらまた怒鳴り込まれるかも知れないし著作権侵害とやらをまた言われるのだろうが、戦時中の当事者の名前や状況を取材してズラリと書いたのは私だといえるからね。


「丸 エキストラ 第1号-第5号(平成8年11月~9年7月)」目次

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この第3号から5号で3回にある仲村明子名義の記事が高射砲陣地の記事。
しつこいが、今回ニュースで流れた写真の初出でもある。
写真提供者名も書いてある。
と言っても学術書ではないから偉い人には通じない。

力がない。生きていた人たちの記録を無名の記録とされたのが悲しい。

歳を重ねて偉くなった人は、敗者の歴史を忘れメカニックのスペックだけを史料とするのだろうか。人がいたから技術はあった。

保木間にあった高射砲陣地の慰霊碑は失われた。ご遺族たちに沢山泣かれながら取材したのは人が生きていた記録だけでも残したかったからだ。

この高射砲陣地の取材の時に関係者さんに教えて頂いた小石川の慰霊碑に先月ふらりと出かけたのは導かれたのだろうか。
とも思う。
心が疲れる。

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