熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

昔の話しですが、飯田橋駅から歩いて潮書房光人社に完成原稿を届けていたアナログ時代の私


私は今飯田橋ホテルグランドパレスの19階に泊まっている。

私が初連載を持っていた戦記雑誌丸の光人社、潮書房があったビルのごく近所のホテルだ。
丸の新自社ビルが建つ前は、元白泉社の並びの戦前からの木造建築だった。(白泉社は高校時代に投稿していた出版社で同人仲間が何人もデビューをした。その中には去年突然死をした明智抄さんもいた)

あの頃、潮書房は古い木造の本社とエイトマンの映画で終わってしまったリム出版の建物を使っていた。
丸編集部との初打ち合わせは東京ドームを借り切る実写版エイトマンのイベントの打ち合わせもしたであろうリム出版の元応接室。
新社屋ができる予定の場所も案内してもらった。

あの頃、私は20代後半で、今はない文章の賞をとった。

そして、元読売新聞社会部の伊藤一男先生と早乙女勝元先生が丸で連載をすることを後押ししてくださった。
早乙女勝元先生は左派で、昔東京大空襲を記録する会の頃、丸編集部が随分協力してくれたと好意的だった。
竹ノ塚駅西口にあった喫茶店のエリカで丸の編集さんと早乙女先生と打ち合わせをしたこともある。

戦時下の記録を残すことが、大事で戦争に兵隊として殉じた人々も人間であった。
早乙女先生のお兄様も徴兵され戦後苦労されている。
なので、丸に対しての偏見はお持ちでなかった。
残念ながら丸で書くことを反対した人もいた。親戚には不快感を持った人もいた。
面倒はあり大変さはあったが、それでも懐かしさがある。

昔話の脱線ついでに、ターンAガンダムの頃、私が『B-29操縦マニュアル』を出していたことで、富野監督に面白がられていたことがある。軍人は戦争の裏も知っているから開戦に積極的ではなく、と、いう話も富野監督とした。
民衆が開戦を望むように世論を導くものはなんだったのかなどは、星山先生と話した。
その頃、ある方からアニメのシナリオ参加を勧められていたが星山先生がやんわりとノンフィクションも大切だと言ってくださった。

砲が慰霊碑跡から発掘されたことで、ミリタリーが好きな人たちがツイッターで発言をされているが、陣地の記録、なぜあそこに作られたか、中で人が生活をしていたことは抜けている。
低地なので、掩体壕の中は湿度が高く、天気が良い日は掩体壕の上に毛布が干された。
人殺しの道具であったのは確かにそうである。
しかし、あの時代先進国で弱い国から経済搾取をせず軍備を持たない国はあったのだろうか。
繰り返してはいけないとの思いで、あの場所に慰霊碑は建っていた。
砲身単体で語られて、ありもしない迎撃記録や、亀有の日立工場を守るための施設だとか。

あそこは帝都防衛の施設であり、日立の工場だけを守る施設ではない。

そういえば亀有の日立工場は軍需工場として登録をしていなかった。
それでも資材が入り稼働を続けて戦車を作っていたが、軍需工場として登録をしていなかったので戦後戦勝国から機材没収を受けていない。
が、中小の町工場は軍と契約をしていないと仕事がない。そのために戦争犯罪に加担したとして大切な機材を戦勝国に没収されている。

この軍に協力、戦争協力は文壇画壇映画人なども、やらなければ機材、画材、日常生活に不自由が生じた時代だった。綺麗事では生きられない時代。
戦後、戦争協力をしたということで、彼らは糾弾された。


あの暗い時代、あれは繰り返してはならない。
あの暗い時代の象徴として、砲身は残すべきだと私は願う。
ただの金属の塊の陣地ではなく、維持するために稼働させるためにいた徴兵された人々の悲喜交交も共に記録を私はしたかった。
保木間の陣地は内地なので恵まれていたのかもしれないが、いや恵まれていた。それでも戦闘もあり、直撃弾による死者も出た。
十二サンチの最後の隊長はビルマから呼ばれた人だった。元の部隊はほぼ戦死をしている。水平に撃つ戦闘の話をしてくださったが、あまりにもの絶望的な使い方で、それを若い戦記ライターに話したら嘘だと言われた。
私は本当にあった話だと信じている。
本土決戦になったら保木間の部隊も地上戦のために運用を変えたかもしれない。
とか言うと、だから女は物を知らないと言われるような時代に私は戦記を書いていた。
なので、とても気を使った。
取材先に塩を撒かれたこともある。
あの頃はまだ戦争は生々しいものであった。



話を飯田橋に戻す。
あの頃、光人社、潮書房への入稿は原稿用紙だった。
良いものが書けていると、グランドパレスでケーキセットをご馳走になれた。
ラウンジからは光人社の社屋が見えて屋上でストレッチをしている編集さんを眺めながらピアノの生演奏を楽しんだ。
まだ、出版業界が元気な時代だった。

編集部の隣の喫茶店のジュースも美味しかったが、なくなった。
ヤクザに地上げされたとの噂だった。その後、斑鳩というラーメン屋さんが開業して、いつのまにか凄い行列店になっていた。斑鳩も今はそこにない。

丸の編集部に行くまでに、創価学会系の潮出版、あの竹書房、OUT編集長だった大徳さんの出版社の樹想社があった。
それぞれ移転や合併などで……。

光人社の社屋にはマッサージ屋さんが入っていた。


秋田書店はまだ残っている。

ホテルの窓から靖国神社が見える。
ここに泊まる戦友会や遺族も多かったので、その人たちの取材でもグランドパレスのロビーを使ったことがある。


あの頃、30そこそこの頃に書いた記事の一部を下の方にはった。
青臭さもあり、黒歴史でありましたがお世話になっていた保木間の高射砲陣地が郷土史から取り残されてしまったことに気がつき昭和館で読み直しコピーをとった。
多くの人を泣かせながら取材した内容だが、私の連載は若い人たちに受けなくて、高射砲陣地の記事では若い編集さんに戦闘シーンなどを華麗に書き足されて日常を削られた。
やめて欲しいとお願いしたが、この方が面白いと受け入れられず、上に大泣きをしながら抗議をし元に戻してもらった。

知人に仲村さんは高射砲の人たちにもコネがあるのだから久我山の陣地の方をやった方が読者受けすると助言もされた。
ある人がやりたいと、紹介して欲しいとも言った。
実は久我山久我山の人がまだ住んでいた。
語らない人であった。
小石川の慰霊碑には訪れておられた。
そういうデリケートや世界であった。


カッコいい戦記を書きたい人は沢山いる、その人たちが作家になるまで待てば良いと心から思っている。
私の原稿を書き換えた若手編集さんは作家志望で、転進された。

私は大幅な原稿書き換えを2回経験している。2回目は小説だったが、やはり若手の男性だった。戦闘シーンをあり得ないものにされたのでそれは違う名前で発表し私の黒歴史にした。
戦闘シーンを書きたい人は沢山いる。
人のもので書き直さなくても自分でやれば良いのにと今も許せていない。

つかそんなに戦闘シーンをかっこよく書くのが好きなら傭兵にでもなれば良いと私は言いたかった。



アラサーで二児の母時代のなんというか恥ずかしい思い出です。




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終戦時は大伴隊長は移動し、西村隊長が戦後処理をした。
西村さんはビルマの部隊から異動してきた方で、話していただいたビルマでの高射砲の打ち方に私は書いても信じてもらえないだろうなと。

あの連載はたまに褒めてくれる若者もいたが、大抵の若者はもっと有名な人をとかメカニックの写真を借りられるならそっちでとかの助言ばっかだった。
カニックを書ける人は今も沢山いて良い時代だと思うですよ。
カニックのスペック並べるより、人間模様に興味があった私はこのざまです。

また郷土資料館でも軍事施設はやりにくかった。だから個人でするしかなかった。
退職してからあちこちの人に会いに行き、得た資料を渡し続けた。
その中の写真だけが活かされているようです。
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