義父の生誕120年と、柳屋画廊の遺作展から50年という節目に合わせてジタバタをして、池之端画廊さんのご好意で新春に個展を開催できた。
また義父のふるさとの千厩でもやれるかもしれない。10月に予定は組まれたがワクチンがどこまで行き渡るか、効果が実感されるかなどの不安もある。
熊谷登久平の最後の遺児である夫の寿郎の健康状態も悪い。色々身体に抱えてる。なのに夫は動く。
私が油断していたら先程脚立に乗り落ちた。無事だったけど不自由な足で脚立に乗るのはやめてほしい。
下半身の問題解決のための手術も選択肢になっているがコロナ禍で病床不足の噂もあり夫悩んでいる。
夫が望む熊谷登久平の再評価は、彼が動けたら一番良いけど、どんどん厳しくなっていく。
日本が開国して洋画が入り、日本の洋画家も次々と誕生している。
死ぬまで中堅だった熊谷登久平、没後半世紀には絵が収蔵されている都内の美術館の学芸員さんですら知らなかった。
熱心なファンも最後の1人となり、お弟子さんも最後の1人が御存命なだけとなった。(我が家が把握している)
次々と新しい洋画家が誕生して活躍をする。
すると埋もれていく人も出る。
だから綺麗な上澄の層から沼の底に埋もれていく。
底に埋もれたら引っ掻きまわさないと浮上しない。
水上にあれば花火を打ち上げられる。
とか素人である私は思うのですよ。
その最初の花火が長谷川利行のスケッチブックがらみの朝日新聞の記事であったし、美術の窓に私が書いた記事であったりすると思うのですよ。
そして個展がひらけて岩手県の新聞社と東京新聞さんが取材に来てくださり記事になり。それも熊谷登久平ここにありの花火なんですよ。
で、次の花火も長谷川利行のパセリの熊谷登久平としてあげる下準備をしていて、それで数発あげたことになり、岩手県の千厩の個展からいつかは美術館で長谷川利行のパセリであっても熊谷登久平メインな展示で再評価されるまでが夢であります。
で、熊谷登久平の子であることと、熊谷家ということが根っこにある夫へのお返しになるのではと思っております。