熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

浅草にて用があり桜見る。 チョーチンのない雷門。可哀想な熊谷登久平

義父、熊谷登久米と同郷の岩手県千厩町出身で旧制一関中学美術部後輩の白石隆一氏の伝記を読んだ。

一関中学卒業後、中央大学に進学し親に内緒で川端画学校にも通い画家になりたいと父親に言った為に勘当された義父は栄養失調になった時期もある。
白石隆一氏は川端画学校に専念して東京で仕事をしていた父親がアトリエも用意してくれている。
千厩町の極近所の熊谷家と白石家で、共に家督息子なのにえらい違いだ。


義父と白石画伯は一関中学時代と川端画学校に重なる時期があり、本書では、その辺りの生活感と学生時代を読みたかったのだけど余り書かれてなかった。

そして熊谷登久平は「千厩の豪商日野屋の家督息子で美術家となった」「長谷川利行と知り合い、矢野らと浅草など東京の下町を飲み歩いたといわれている」「熊谷は後年銀行の経済人として絵を描き続けた」などと描写されている。

えっと、熊谷登久平は銀行の経済人って何?
経済人として絵を描き続けたと一関市の資料には書かれているん?
矢野文夫氏は画家としても描写されとるけど、熊谷登久平は銀行の経済人?
夫に訊ねたが義父が銀行勤務をした覚えはないそうだ。
オーラルヒストリー?

読了後に夫と感想などを話して、もしかしたらこれを読んで義父の甥の熊谷英三さんが熊谷美術館をつくってくれたのかなと。
千厩で取材をして書かれた本に画家と一言もなく、後年は銀行の経済人として絵を描いた人となった熊谷登久平。
これは失礼だと思う。
もしくは何か、次男である夫が知らない資料があるのかも知れないと、著者について調べたらどうやら故人。



■小池平和(こいけ・へいわ)
 1946年、長野市生まれ。 早稲田大学法学部卒業、元毎日新聞記者。岩手県一関市に在住し、出版、編集、著述、文化事業企画などに活躍中。
 県立病院の移転を考える市民の会事務局担当世話人、黙っていられない市民の会事務局長、一関市民会議21常任幹事。
 著書に『東北の地名・岩手』(共著,本の森)、 『美は脊髄にあり 画家・白石隆一の生涯』(本の森)、 『昭和の赤ひげ先生 酒井清澄』(共著,本の森)、 『平泉藤原時代 その文化と人々』(全3巻,耕風社)、 『夢炎上 平泉滅亡物語』(青磁社)など。

http://www.teganuma.ne.jp/ichi/wadai/koike/koike.html

http://garoto.web.fc2.com/literature/yoshi_hi3.htm

この出版社の関係者さんで著者の友人らしい方は、コロナウィルスは日本が作ったと発言したために日本政府から衛星を使った攻撃を受けておられるとツイッターで書いておられて大変そうだ。
この出版社から今月熊谷伊助も紹介されている本が出るかもなんだけど、出版社のツイートが分かりにくく謎でしかない。
謎だ。



問い合わせ先が思いつかない。


まあ、去年一関市の公務員さんに千厩には有名な画家がいるから(熊谷登久平は知られてない)と言われたけど、かわいそうなおとーさん。
戦争画を描きたくなくて国策会社の東京航空計器に入り頑張ってしまったから、一関市には画家として見られてないのよ。
戦争をやめろ、戦争をやめろと心の中で叫んでも会社に入ったら画家として見られなくなるんだなぁと。
かわいそーな、おとーさん。

この著者さんは熊谷登久平を画家として認めてない、日曜画家と扱っている。
これが普通の見方なのか。
結構悲しいね。



『美は脊髄にあり-画家 白石隆一の生涯-』
著者  小池平和
発行所 本の森
印刷所 株式会社 一関プリント社