熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

竹橋から新御茶ノ水まで歩いた

ちょっと待ち合わせに合わなさそうだったので、タクシーで竹橋まで行き約束の時間ちょうどという。
タクシーで国立近代美術館に向かうのはなんとなくマダム気分。
そのかわり帰りは駿河台の長い坂を登って新御茶ノ水から千代田線に乗り、根津駅まで帰りましたけどね。
大手町から下りの千代田線は混むから苦手。
神田まで歩いて山手線に乗る方が空いてる気がする。

国立近代美術館では高畑勲展を鑑賞。
東映動画時代の作品から晩年まで。
私の1番の目当ては「太陽の王子ホルスの大冒険」母の具合が悪い時に母の弟に映画館に連れて行ってもらい鑑賞し、絵本をねだって買ってもらったぐらい幼心に好きだった。
その絵本は今でも持っている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%AD%90_%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%86%92%E9%99%BA

大好きなので、やっと美術館で展示される時代がきたのだと思いつつ、ヒルダが大好きだった漫画家の和田慎二先生や悪役のグルンワルドが好きだった友人がこの展示を観て欲しかったと、残念にも思った。

あとは宇宙戦艦ヤマトでアニメーションブームが起こった時期に放映されていたアルプスの少女ハイジ以降からの資料は多く残っているけど、それ以前はあまりなくセル画や原画などが廃棄されていたとは知っているが残念に思う。
それでも多分高畑氏が捨てられない男だったから残った遺品がきちんと調べられて展示できるまでになった経過も知りたいとも思った。

手書きの文書資料が多くざっと読むしかできなかったので図録を買うか悩んだけど、見本をパラパラした感じではまだ全容解明がされてない。
膨大な紙資料なのでホルスだけでも凶器になるような本が作れそうだけど、赤字になるよねとか思ったり。
叶うなら死ぬ前に全部読みたいなと。

他、まあとても感動する資料の山を鑑賞して美術館を出て一橋方面に向かい、スイーツを食べ、古本屋を巡り、御茶ノ水で学生時代を懐かしみ沖縄そばを食べ、
千代田線で根津まで帰り、スーパーで買い物をして帰宅して、大家の奥さんの用事をして今日は終わり。


だらだら。


竹橋って戦時中を調べていた頃は憲兵隊の総本部って感じで、B-29搭乗員の骨が出てきた場所だったり、拷問受けた人を連れて行って検証をしてたらうっかりと警視庁の機動隊の敷地内に入り込みすぎで色々あったり、毎日新聞に写真を借りたりする所でした。
その前は棟方志功展やらなんやら観に行く美学生の散歩道でしたね。
あと武道館でコンサートとかパレスホテルで小学館のパーティとか。
竹橋と言えば憲兵隊って世代や機動隊が出動する場所と思う人はもう少数派ですね。
拷問されたロイ・ハップ・ハロラン氏に頼まれて憲兵隊本部の写真を入手してアメリカに送ったら、渡米先でコピーが出回ってるのを知り困惑もしましたけど、元を持ってた方には内緒にしました。

足立区の鹿浜にお住まいの方でした。
結構写真を融通してもらい、取材に使いました。
私の人生で一番高いお寿司をご馳走してくれた方で、振り回されたこともありました。

鹿浜には警視庁の偉い人もお住まいで、戦時中の話をうかがっていたら私が元特高警察の方のご遺族と近しくしていたのをご存知で、驚きました。

鹿浜はなんであんなに高学歴な謎経歴の人が住んでいたのだろうと今でも不思議に思うことがあります。
疳の虫を切る家があり、桜を作る人たちが住み、栄えていた土地ではあります。



憲兵憲兵隊と書いていますが、特高警察も竹橋から徒歩圏内にあり、平成になっても官舎が残ってました。
公安とかの前身という人もいますね。



































銀座から京橋まで歩いた

生活図画事件の当事者がお二人ご存命で、その写真を撮影したカメラマンの展示会が銀座であると知り、出かけたら今日は終了日で展示は3時で終わっていた。
残念です。

https://news.yahoo.co.jp/feature/741

なので、京橋まで画廊を覗きながら歩いた。
藤屋画廊さんでは住谷重光展。
木炭を使った作品と、油画の風景画、木炭画は抽象的であるけど黒を探求した高塚篤さんの画風とはまた違う。木炭の柔らかな黒だ。
風景画は須磨海岸大好きな私にはどこか懐かしい。


住谷さんの絵を観て思い浮かべた高塚篤さんもかつてはテレビなどで取り上げられる売れる画家だったのに今は画家としての痕跡がネット上にはない。


住谷さんと雑談をしたあと、京橋の画廊で若い女性の作品を鑑賞。
育児をしておられる女性で幼児向け厚紙パズルを使い心を表現されているのかだけど、作者の説明文と込みでないと私には理解できなかった。
畳を使った作品が面白かった。














高見順ほどの文豪なら、いつでも読めると思ってい。

高見順が編纂した本で面白いのがあったよねと探したら、台東区の図書館にはなかった。
銀座が下町と呼ばれていた時代の本だから、下町を売りにしている台東区にもあると思っていたんだ私。

母校の図書館は良かったなあと思う。
阪神淡路大震災で潰れてしまったけど。

高見順クラスでも絶版があるんだと、アマゾンで検索してボゲーとしてる。

長谷川利行のスケブ ピカソ風の春画風

今の日本で長谷川利行を調べている学芸員では恐らくトップクラスの人たちが来た。
熊谷登久平が大切に持っていたスケッチブックはほぼ長谷川利行のものだろうとなり、きちんとした収蔵庫で保存され研究されることになった。
展示会とか今は気軽にできる予算はないから、いつかは長谷川利行の楽しい時代のひと時が公開されると良いなと思う。
スケッチブックが描かれた時代の日本はすでに戦争に向かっていて、長谷川利行の死を回想する人たちが良い時に亡くなったと書くような時代が来る。
絵具が欲しければ国策に似合う作品を描かなければならず、プロレタリア画家たちは方向転換をしたり色々あったり、長谷川利行の描きたいように描ける時代ではなくなっていく。

その時代へと向かう楽しい時代のスケッチブックを熊谷登久平は大切に持っていた。
表現の自由って、けっこう難しいから熊谷登久平は専業画家であることをやめて、自由に作品を描くことを選んだ。、

そんな自由に描いていた熊谷登久平は画家として洋行してパリなどで海外の画家や移住している日本人画家ともあってきたようだ。
日本の春画が海外では受けるので、ある程度練習をしたのだろうか、それとも好きで描いたのか。
熊谷登久平の春画もある程度は残っているが、謎の春画もある。

サインがピカソに似ている。
一緒に保存されているのはパリのあれこれ。
うーん、謎だ。

海外の画家さんたちとワイワイしながら、遊んだんだろうなと。
賑やかが大好きな人だったそうだから。

私が撮影できなかった春画に至っては、見つけた義母が岩手県の義父の親戚宅に送りつけたぐらい、モーレツなものだし。

私は18禁の仕事もしていたけど春画は免疫がないです。仕事は主に女性向けだし。


永井豪展に這ってでも行く世代です。

ユンケル黄帝液は良いと思う。
安いのを三本飲むのが効くのはあくまでも個人的な感想です。

永井豪って今読んでもエッチなのはエッチですよね。
かつて長田の映画館にサインはVを二歳上の従姉と二人で観に行った時、ハレンチ学園が同時上映でした。
表現の自由万歳。
当時の私は七歳なので、ハレンチ学園はお尻の肉を肉屋さんに並べるという部分だけしか覚えていません。

それが、小学三年生の時ですかね、少年マガジンデビルマンが始まったんですよ。
一話を読んだ時のギギギと開く門の先が知りたくでジリジリしました。

アニメのデビルマンも好きでしたけど、私が住んでいた地域はエンディングが流れないんですよ。
エンディングがあると名古屋に行った時に知った私は父に何故関西に引っ越したと泣いて抗議をして、父は岡山放送を観られるようにしてくれました。
岡山放送はエンディングがある版を放映していたんですが、アンテナの種類が明石や神戸とは別でした。

で、永井豪展良かったです。
実は仕事先のJUNEの佐川編集長が公式の「けっこう仮面」特集本を出したことがあり、仕事だから原稿を書いて原稿料を頂いたことがあります。
娘息子、今夫には読まれたくありません。
当時の私はノンフィクションライターでしたから読まれたくはないです。
エヴァンゲリオン」本も読まれたくはないですが、けっこう仮面大好き女子中学生時代の回想記なんて孫にはもっと読まれたくはないですね。
























































あの、もしかしたら宮沢賢治さんの弟さんの部隊でねえか? 宮沢賢治研究者の #佐藤寛 の戦前の名刺もあるでよ

かつて私の娘が宮沢賢治を好きで大学で勉強したいと言うもんだから、某都内私立大学に宮沢賢治の良い本を出している方が在籍されてて、風呂で読める宮沢賢治の本とか出していたんで、その大学を受けて合格したらその教授が海外に出た年だったという悲しい思い出があります。
宮沢賢治で小論文書けるように岩手県宮沢賢治ゆかりの場所を私の仙台の親友のテツが車を出してくれて、娘を連れてまわりましたよ。
母の介護は息子に任せてのお受験対策旅をした岩手県は広かったですが、鉛温泉最高でした。

で、義父の弟さんの熊谷宏介氏は、義父が家業を継がなかったので、希望していた医師への夢を絶たれて千厩の日野屋を継いだ人だ。
一緒に医者になろうなと誓い合った竹馬の友は永澤滋さん、のちの日大学長。
私の義父、熊谷登久平の葬儀の写真の中に永澤氏が贈ってくださった花がある。義父の入院先の院長先生でもある。
その熊谷宏介氏の軍時代の写真を眺めていて、話しに聞いていた一般兵ではないのに気がつき、近衛歩兵としても軍装が偉いなあと、思いつつ多分将校。
今日見つけた手記を読むとその後、陸軍の少年飛行学校の教官。
お孫さんに先ほど話をうかがうと特攻に教え子を沢山送ったと。
やっぱり教官。

あと、宮沢賢治の弟さんと同期で戦友だったとの話もあるので、集合写真を探せばいるかもな、岩手県広いから同郷で組ませる陸軍内で一緒の可能性はあるわな。
つか広いから岩手県
なのに、人間関係が狭い岩手県

宮沢賢治の実家と熊谷登久平の実家は似たような規模だったから気があったのかな。
戦前に岩手県民会とかあれば宮沢賢治の家と義父が通っていた川端画学校は近くて、同時期に本郷台で過ごしているから会ったことがあるかも知れない。会っていたとの話もある。
また、谷中に住んでいた義父宅に弟の熊谷宏介氏は何回か会いにきてる。つか義父に甘えられていたりもしてた。

宮沢賢治さんの弟さんの宮沢清六さんも一時期本郷台にお住まいだったような話もある。
宮沢賢治と会っていたとか夫は聞いたそうだが確証はない。

清六さんはSF小説大好きなエピソードもあるし、義父の母校、一関一高の後輩でもある光瀬龍さんとお付き合いがあったらいいな。岩手県民会とかで。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E6%B8%85%E5%85%AD

宮沢賢治といえば、面白いのは義父の戦前の遺品の中に、戦後に宮沢賢治研究会を主宰した佐藤寛(1893-1970)氏の名刺があったこと。
これは「今日も日暮里富士見坂」の池本達雄氏が調べてくださって驚きました。
https://fujimizaka.wordpress.com/
詳しいことは池本氏か長谷部利行のスケッチブックを調べにきた学芸員さんが発表されると思う。
岩手県繋がりであれば良いな研究発表。


さて娘、大学には受かりましたが肝心の教授が渡航した年であり夢は叶わず無利息とはいえ、奨学金を返済中です。学んだことは身になって薄い本に活かされているようですが、超氷河期文系女子な悲しさなので、娘は非正規です。
その大学には都市文学と比較の良い先生がいたのは良かったですが、川端康成を嫌いになるような講義をする先生がいてあれは可哀想だった。
編集者に知り合いがいると自慢して商業出版も自慢してるし、慌てて講談社川端康成生存中の編集さんに確認しちゃいましたよ。へへ。
川端康成と言えば義父とはご近所さんでしたが、義父は内風呂であちらは銭湯だったそうで裸の付き合いはなかったそうです。
川端康成は柏湯だったとのこと。

話を戻しますが、イケメン熊谷登久平の弟の熊谷宏介もイケメン。妹さんも半端ない美人。
なんちゅう一族だよ。