熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

あの、もしかしたら宮沢賢治さんの弟さんの部隊でねえか? 宮沢賢治研究者の #佐藤寛 の戦前の名刺もあるでよ

かつて私の娘が宮沢賢治を好きで大学で勉強したいと言うもんだから、某都内私立大学に宮沢賢治の良い本を出している方が在籍されてて、風呂で読める宮沢賢治の本とか出していたんで、その大学を受けて合格したらその教授が海外に出た年だったという悲しい思い出があります。
宮沢賢治で小論文書けるように岩手県宮沢賢治ゆかりの場所を私の仙台の親友のテツが車を出してくれて、娘を連れてまわりましたよ。
母の介護は息子に任せてのお受験対策旅をした岩手県は広かったですが、鉛温泉最高でした。

で、義父の弟さんの熊谷宏介氏は、義父が家業を継がなかったので、希望していた医師への夢を絶たれて千厩の日野屋を継いだ人だ。
一緒に医者になろうなと誓い合った竹馬の友は永澤滋さん、のちの日大学長。
私の義父、熊谷登久平の葬儀の写真の中に永澤氏が贈ってくださった花がある。義父の入院先の院長先生でもある。
その熊谷宏介氏の軍時代の写真を眺めていて、話しに聞いていた一般兵ではないのに気がつき、近衛歩兵としても軍装が偉いなあと、思いつつ多分将校。
今日見つけた手記を読むとその後、陸軍の少年飛行学校の教官。
お孫さんに先ほど話をうかがうと特攻に教え子を沢山送ったと。
やっぱり教官。

あと、宮沢賢治の弟さんと同期で戦友だったとの話もあるので、集合写真を探せばいるかもな、岩手県広いから同郷で組ませる陸軍内で一緒の可能性はあるわな。
つか広いから岩手県
なのに、人間関係が狭い岩手県

宮沢賢治の実家と熊谷登久平の実家は似たような規模だったから気があったのかな。
戦前に岩手県民会とかあれば宮沢賢治の家と義父が通っていた川端画学校は近くて、同時期に本郷台で過ごしているから会ったことがあるかも知れない。会っていたとの話もある。
また、谷中に住んでいた義父宅に弟の熊谷宏介氏は何回か会いにきてる。つか義父に甘えられていたりもしてた。

宮沢賢治さんの弟さんの宮沢清六さんも一時期本郷台にお住まいだったような話もある。
宮沢賢治と会っていたとか夫は聞いたそうだが確証はない。

清六さんはSF小説大好きなエピソードもあるし、義父の母校、一関一高の後輩でもある光瀬龍さんとお付き合いがあったらいいな。岩手県民会とかで。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E6%B8%85%E5%85%AD

宮沢賢治といえば、面白いのは義父の戦前の遺品の中に、戦後に宮沢賢治研究会を主宰した佐藤寛(1893-1970)氏の名刺があったこと。
これは「今日も日暮里富士見坂」の池本達雄氏が調べてくださって驚きました。
https://fujimizaka.wordpress.com/
詳しいことは池本氏か長谷部利行のスケッチブックを調べにきた学芸員さんが発表されると思う。
岩手県繋がりであれば良いな研究発表。


さて娘、大学には受かりましたが肝心の教授が渡航した年であり夢は叶わず無利息とはいえ、奨学金を返済中です。学んだことは身になって薄い本に活かされているようですが、超氷河期文系女子な悲しさなので、娘は非正規です。
その大学には都市文学と比較の良い先生がいたのは良かったですが、川端康成を嫌いになるような講義をする先生がいてあれは可哀想だった。
編集者に知り合いがいると自慢して商業出版も自慢してるし、慌てて講談社川端康成生存中の編集さんに確認しちゃいましたよ。へへ。
川端康成と言えば義父とはご近所さんでしたが、義父は内風呂であちらは銭湯だったそうで裸の付き合いはなかったそうです。
川端康成は柏湯だったとのこと。

話を戻しますが、イケメン熊谷登久平の弟の熊谷宏介もイケメン。妹さんも半端ない美人。
なんちゅう一族だよ。