熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

付け焼き刃を名乗るのは保身です。日本美術報国會 歓送会寄せ書き

私は四年生の大学に通って初期に一般教養を学んでいないので「教養がない」と、弄られることが同人仲間内ですらあった。

その教養がないの乱発を受けたのは世田谷区の旧制からの私立大学史学の学閥が一番偉い職場だったが、そこ出身のアカデミックな歴史学界な団塊Jr.のガス抜きに私は使われたいたように今は思う。

私を弄ってガス抜きしていた人のうち正規研究職になれたのはごく僅かで、アラフの今も非正規が多いと聞く。ザマァと実は感じた。

 

ある日、後から入ってきた人に「どこの大学」と問われ高卒と答えたとたん癇癪を起こされた。

「その場所に入りたくて仕方ない仲間が多くいるのに、自分たちが大学と院で努力を重ねている期間に結婚して子どもを2人も作って遊んでいた仲村さんがここにいるのが納得できない。本来ここにいるはずの人の場所を仲村さんは奪っているんですよ」と泣き叫ばれたのは忘れられない。その後、「仲村さんが仲村さんが」と他のスタッフがいる部屋に駆け込んで、その後私が彼女をいじめたと学閥関係者からお叱りを受けたのも社会勉強ではあった。

館長が彼女の指導教授でもあったしさ。つかその職場の非常勤の多くはそうだったので、早稲田や明治の人も若手に常勤試験に落ちたと裏で言われていた。

 

そこで、私は弱いもの虐めをしていたことになり、職場は針の筵になった。

やってもいないのに早乙女勝元先生のコネで入ったと言われた。

先生の講演会もやったのが証拠となった。上から頼まれて間に入ったのに。

 

彼女らは大学に通ってないと教養はないと、教養は大学の初期に学ぶものであり、高卒は勉強が嫌いだから高卒になったと信じていた。

生まれが一族郎党戦前から旧制大学で、ナンバーな旧制高校など。

親の付き合い相手も似たような環境であった人。親の親友が誰でも知ってる高名家系の直系。

名門に幼稚園から通った。

だから誰でも大学に進学する環境。

高校時代に親が決めたレールから外れた大学を選んだ。

なので、私と同じ日給は屈辱だったろうな。

それからは私の資料が見当たらなくなり、聞くと返しておきましたと言われたから安心していたらダンボールに入れられて私が知らない場所から見つかり私が叱られることもあった。

身に覚えのないことで注意を受けるようになった。職場に行くのが辛くなった。あえて鈴を鳴らしながら部屋に向かうようになった。だって私が例えばエッセイで賞をとったのは嘘だとか言ってるの聞きたくないじゃん。

早乙女先生のことも中卒と馬鹿にした。

 

オタサーの姫タイプを初めて知ったよ。マドンナと呼ばれていたし。無敵の20代。

 

色々重なり急激な激痛でトイレで血を吐き、帰宅後に寝込んだ。

その様子があまりにも変だったらしく、7歳と5歳の子どもが薬局に走り私の好物だと思い込んでいたユンケルと耳掃除を購入し、我が家に急ぎすぎたため娘が交通事故にあった。

連絡があり駆けつけると娘は片足が皮で繋がってある状態となり血の海にいた。

 

それからは職場には席があるが、資料を見つけると上司にまとめて送る形にした。

ある日やっていたものの目処がつき、完成会に呼ばれて行ったら「仕事より子どもをとって迷惑をかけたのによく顔を出せましたね」と女子トイレで言われて愕然とした。なんなんだろう20代で子を産んだことへの否定的な考え方。

 

数年前、電話を取った途端怒鳴ってきた人も彼女の先輩で彼女を可愛がっていた人だった。

その人は違うと思っていたけど、私が人の研究を盗んで名乗ったと判断して「テメーよ」と怒鳴り込んできたわけで、「馬鹿記者」と言われ、あの学閥はそういうものなんだろうな。人を馬鹿と平気でいう。

私盗んでないし。絶対に盗んでいないし。

つか自費でアメリカに行って資料持ち帰ってきたの私だし。

 

怒鳴られ馬鹿記者と連呼されて、過呼吸を起こしながらあぁこの人は癇癪持ちでもあったなあ。やっぱり御曹司だし、あの学部はお手伝いがいるような家庭で育った人が多いところだと聞いてはいたな。的な。

で、私は金曜日の電話が怖いままだ。

 

そして今私はあの学閥には警戒するようにしている。自分たちと同じ階層以下と判断したら馬鹿と平気で言える人たち。

群れて1人を攻める人たち。

 

そして私がどんなに頑張っても努力をしても、あのタイプの人たちには付け焼き刃、下手な横好き、教養がないになる。

 

去年も同じく学芸員の資格持ちの人に美術史についての私の素人加減を御教授いただき、また旧制大学卒の熊谷登久平も美學、東京藝大に受かってないのを下手の証拠と御鞭撻頂いたが、それを良い経験であったといつか思えると良いな。

(えっと義父の下宿先に長谷川利行が初めて訪ねてきた時に義父が描いていた自画像は藝大受験用だったそうだけど、画家になりたいと言って生家を勘当されていた旧制中央大学卒の生活力がない義父、それを支えた内縁の妻)

死語50年以上経ってるのに、遺族の私に対して下手だ下手だ、今の独立協会でも熊谷登久平はダメだと言われているとか教えてほしくなかったわ。

私は泣いただけだけど、夫は怒鳴り込もうとしていたわ。

 

 

で私は付け焼き刃で、(ぶっちゃけ保険でもある自称付け焼き刃)私には彼らの言う常識的な教養もない。

『日本美術報国会』について手元にある当時の雑誌や国会図書館の資料などで他を調べている時もチェックはしているが残念ながら戦中の記事だと翼賛的なものしか私は見つけられていない。

私の中の義父が生きた時代の情報は断片のままだ。

 

報国会が結成された1943年昭和18年

翌年昭和19年には画家たちの徴兵逃れの一つであった美術教師たちにも招集が始まり彼らは戦場に向かう。(正確な資料を私は把握してないです。)

義父の熊谷登久平は国策会社で軍用機の計器を研究製作をしていた東京航空計器にそれまでは嘱託、非正規として勤めていた。

熊谷登久平は時代が危うくなった昭和19年に東京航空計器の正規社員となることで戦争画家になることを逃げ切り、また招集される年齢であるのに戦場に行かないで済んだ。

前年の昭和18年(1943年)には学徒勤労動員(がくときんろうどういん)が始まり、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員された、義父の故郷の岩手県の旧制中学や女学生たちも動員され、中には東京航空計器に勤めた学校もあった。義父はその人たちの統括?世話?的な仕事をしていたようで、東京航空計器の昭和19年の青焼の資料が秘書室に残っていた。

真摯な気持ちで工場勤務に就いた岩手県の女学生に無理をしないようにと言って反感くらったのが多分義父。

 

我が家と岩手県千厩の本家に熊谷登久平の昭和19年の展覧会に出した作品が残る。

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本家にある作品は長く制作年不明となっていたが、使用している絵の具の色と筆使いは我が家にある昭和19年の独立展に出したものと重なり、本家の当主にこれは昭和19年の作品ではないかと去年10月にお伝えした。

その後国会図書館デジタルアーカイブが劇的に使いやすくなり、本家にある作品が出展された展覧会も確認できて昭和19年のものであっていて、付け焼き刃の私はほっとしたものだ。

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この特徴的な茶色、この茶色は足立元さんのネットで読める文章によると美術報国会的な色使いであるように思える。

そして、私は報国会推奨だったかも知れない茶色について知りたいので、今また資格もないのに情報のカケラを探している。

 

 

 

『1943年に太平洋戦争翼賛のために組織された全美術家の統制団体。38年の国家総動員法の公布によって、絵具や彫刻制作のための銅を含めた資材の使用制限が行なわれるようになった。同年には不足金属回収運動によって、既存の銅像が供出されることもあった。以来、洋画家、日本画家、彫刻家、工芸家たちはそれぞれ自主規制のための翼賛的な団体を組織して、制作のための資材の確保に努めていたが、43年5月に日本美術及工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)の二つの組織に集約された。

著者: 足立元 

から引用

https://artscape.jp/artword/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%8A%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E7%B5%B1%E5%88%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A

 

この足立元さんの『裏切られた美術 表現者たちの転向と挫折』は古い本ではないのにもう品切れでAmazonで高値となってて悲しい。このサイトに書かれている茶色が主流的なことが気になって仕方がない。

 

日本美術報国會 山口蓬春 石井伯亭 野田九浦 赤城泰舒 辻永 等 紙本肉筆 
 全寸約 1370㎜×676㎜

 

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宮本三郎 天日照 武運長久 出征旗 紙本肉筆 

全寸約 1350㎜×685㎜

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https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/wp-content/uploads/journal/pdf07/7-265-274-masuko.pdf

 

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000010.000090951.html

​【平和祈念展示資料館日本画横山大観、洋画の藤田嗣治らが原画を描いた約400点の軍事郵便絵葉書を展示!

「軍事郵便絵葉書に見る 彩管報国(さいかんほうこく)の画家たち」

日本画家たち:
池上秀畝(いけがみ・しゅうほ)、伊東深水(いとう・しんすい)、川合玉堂(かわい・ぎょくどう)、川端龍子(かわばた・りゅうし)、小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)、竹内栖鳳(たけうち・せいほう)、野田九浦(のだ・きゅうほ)、横山大観(よこやま・たいかん) など

 

洋画家たち

石井柏亭(いしい・はくてい)、石川寅治(いしかわ・とらじ)、荻須高徳(おぎす・たかのり)、小磯良平(こいそ・りょうへい)、小早川篤四郎(こばやかわ・とくしろう)、小林萬吾(こばやし・まんご)、鶴田吾郎(つるた・ごろう)、寺内萬治郎(てらうち・まんじろう)、中澤弘光(なかざわ・ひろみつ)、中村研一(なかむら・けんいち)、藤田嗣治(ふじた・つぐはる)、向井潤吉(むかい・じゅんきち)、吉田 博(よしだ・ひろし)、和田三造(わだ・さんぞう) など

 

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