熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#足立区の最果て竹ノ塚にて ど田舎の悪夢に苛まれる

昨夜ネットでカルチャーショックとジェネレーションギャップやらなんやらで午前にふらりと気を失った。

心臓からなのか精神的なものなのか分からないので、竹ノ塚の心療内科に行った。

 

竹ノ塚。

私は18歳の時に奨学金のために朝日新聞竹ノ塚店に住み込んだ。それからが東京生活の始まりだった。

学費を出してもらう代わりに新聞配達と集金と勧誘をやるのが朝日新聞奨学金制度。

手取りは四万五千円、そこから八千円家賃を引かれた。

自炊。

手取り額は受けていた説明の半額。

数ヶ月後に少し上がったが親元に仕送りをしなければならないので、新聞配達仲間の農家出身の子から野菜と米を分けてもらい、代わりに学生たちのご飯を作って皆で食べていた。

でも、一人、また一人と挫折して故郷に帰って行く。

米と野菜が届かなくなる。

 

でも配達していた団地の奥様たちがたまに食べ物を分けてくださって助かっていた。

配達していたのは三百世帯前後。

三百世帯の奥様のたまにだから、結構食べることができたし、花好きと知れてから花の先生が良く料理を分けてくださって本当に助かった。

私が配達していたのは公団の団地だったので客層が良い方だった。

 

今の若い人にはピンとこないだろうけど、終戦後外地と呼ばれる日本が占領した場所や、国際的に認められてて領土にしていた土地から、沢山の人達が帰国してきた。

富裕層もいた。

しかし、多くは寒村の次男三男の冷や飯食いで、田舎に帰っても食べるのに困る層。

夢と希望で向かった外地では裕福になって教養もつけていた人たちもいた。

例えば満州でも計画的に造成された都市部ではそれなりの暮らしができた。

そこに農作物を届ける農家も税が少なく暮らしは楽だった。豊かな家族が増えていたので子も増えた。

変に思われるかも知れないがロシアとの国境付近すら都市化していた。

日本は満州のインフラにかなりの金を使っていた。

が、敗戦になってからは悲惨に、港に遠い地域更には悲惨なことになる。帰国することが難儀な。

 

中国の租界と呼ばれた地域や南方、冷や飯食いの次男三男の兵士たち、看護婦たちも同じこと。みな命がけで帰国した。でも生きて帰れても寒村では食えない。全国の都市部は丁寧に空襲被害にあっていて住める場所は奪い合いだ。

 

戦前、足立区保木間には高射砲の大隊があった、戦後、その兵舎には満州からの引き揚げ者たちなどに東京都が住まわせた。

その後、都営住宅や商業地となった。

被災者や引き揚げ者のための家が必要だった。

平和島の捕虜収容所にも引き揚げ者が住んだ。池之端にはテント村ができ、上野公園にも住み着いた。

兵庫県神戸市の鉄道の高架下にも住み着いた。

都市近郊の農家は闇で潤った。

納屋に引き揚げ者や空襲被害者をべらぼうな報酬で住まわせてやったりもした。

進駐軍の政策で田舎は戦中から住んでいれば小作も土地を安くもらえて農家はウハウハだった。

 

都市は都市計画の為に人の流入を規制した。その為に郊外やど田舎に溢れてた人たち用の建物を用意した。

それらが都営住宅や市営住宅や県営住宅となる。

便利な土地はなるべく使いなくないが、使った都営住宅もある。例えば南青山団地などがそれだ。

元々港区に住んでいた焼け出された人たち向けだ。

 

戦後は終わったと言われた好景気は何度かあった。残念ながら日本の好景気は朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争などの特需が多い。

しれっと兵器輸出とかしていた大企業もあるが、合法だ。

日本の景気は良くなったが、都心の土地には限りがある。

そこで高所得層向けに建てられたのが公団住宅だ。

低収入者は入れない仕組みで、当時の最新鋭の設備を備え、旧戸籍制度からの解放の象徴、核家族向けに作られたインテリ心を刺激する売り出しで、大人気だった。

竹ノ塚の公団の団地もそれにあたる。

なので、私が新聞配達をしていた頃はアッパー層がゴロゴロ住んでいた。

大手出版社の編集、朝日新聞や読売新聞、東京新聞の記者や社員。

東大の教授。

誰もが憧れる教育用大型帆船の船長。

彼らは進歩的で本を貸してくれたり、田舎者には貴重な凄い観劇のチケットととか限定本をくれたり貸してくれたりした。

それが私の竹ノ塚だった。

 

それと肉屋さんと魚屋さんから売れ残りを安く分けてもらえていた。

辛くてもなんとかなった。

 

以下明石時代の回想。

私は高校生の時に同人活動神戸新聞朝日新聞に取材されていて、朝日新聞の取材で「シンデレラになれない」から書いていると答えた。

これは生まれの劣等感と、本ばかり読んでいた小児喘息のブスは虐めても良いものだという住んでいた土地の特異性が辛かったのもある。

 

ダラダラと長文です、

 

 

 

実の父親と母親が正式に入籍して同居することになった。

喘息の私に良い小牧の郊外の家から父の本宅がある長田区が検討されるも、空気が悪いと親戚が反対したそうだ。

小児喘息の私に良さげな土地が新居の判断基準だったが神戸の繁華街で育った父にはあてがない。

そこで父は親戚に相談して、遠縁の親戚が住む小作人用にしては広い明石市の農村地帯の長屋に住むことになった。

その長屋は明石の城下で建物疎開があったときに持ってきたもので再建築され、ど田舎の長屋にしては良い作りであったが神戸市の長田とは違いボットン便所であった。

風呂は五右衛門。

 

喘息で体が弱いのに日が当たらない陰気な場所。そこから少し先の田んぼは農薬バンバンだし、目の前は工場。

父は空気が良いと親戚に勧められたそうだが、国道二号線も近い。

話が違うと母は嘆いた。

 

良いのは本屋さんがあったことぐらい農村だったが、本屋さんは少ししたら閉店した。

そして小学校は片道2キロ、途中に長坂寺という延々とした坂を越え、下り始めてやっと小学校という生活が始まった。長い坂は息切れした。

 

転校してびっくりしたのは言葉が通じない。

関西弁と言っても播磨弁。

名古屋育ちニャアわからんがや。

で、名古屋弁は馬鹿にされまくるがや。

 

本家分家あそこも親戚という村単位の集団。

父が相談した親戚は本家の娘の婿。

つまり村社会で数えられてない人。その遠縁の我が家。

 

遠縁の親戚の息子は同い年だったが父親が明石城下の人間ということで、神事には参加できない。

それが長屋の隣。

 

よくまあ下調べもしないで、あんな人間関係がドロドロしてる村を選んでくれた。と、今でも父を恨む。

 

 

戦後、都市部の人たちから米と土地や、貴金属、刀、鎧、嫁、欲しいものはなんでも手に入った農村。

金が入った家は、それまでの素朴な嫁を追い出してお水の嫁を入れたりしてて、それが本家の男子なら全然大丈夫な地域。

 

とか愛人を正妻にして元の妻を追い出した家が複数あった。

 

それなのに私は婚外子と親戚の子がバラしたので、子どもたちに色々言われた。

色々言ったのが最初の奥さんを追い出して後釜になった奥さんの家の溺愛娘だったのもお笑いで、本人はそれを知らない。

でもみんな知っている。

そんな村。

 

転校早々2キロも歩いたので小学校で喘息の発作を起こし倒れたが、泡を吹いて倒れたので尾ひれがつき、癲癇持ちと言われるようになった。

となりのガキの母親が言い出したそうだが、癲癇はうつると大騒ぎになり、一応知識がある私の母が本家の娘に抗議をしたので蜂の巣を突いたようになった。

 

その後、私は汚いと村の子達に水をかけられ、それの主犯者のお尻を母が叩いたので子どもの喧嘩に口出しをするなと、母親連合が抗議にきたのも良い思いでだ。

抗議にきたのは全部分家。

 

高貴な家柄を自称する本家。

うん、確かにそうかもね。

それの外孫を敵に回してしまったので、結構地獄。

小学校の先生も黙認。

唯一止めた先生は六年生の時の担任だが地域の反感食らっていた。

 

五年の時が最悪で、担任は校長先生になりたい人で、例えば床に置いてあった工作の本箱に私の足がぶつかりその場で謝ったが本箱が壊れていた。

私の足が出血していたから証拠として大騒ぎになった。足の心配ではなく、本箱を私が壊した証拠。

ホームルームで土下座の指導をされたが、みな許さず、謝っても許されず。

先生はホームルームで何が議題になるか知っていたからおらず。

出血していた足が証拠。

そして本棚と同じにしてやると帰りに置き傘で叩かれて酷い目にあった。しばらく膿んだ。

 

あと、喘息に対して理解がない。

本当にない。

ヒューヒューいうと囃されるし、マネされる。

薬は隠される。

面白いから目の前で黒板消しを叩かれる。発作を起こす保健室に行く、仮病と言われる。

 

それとカンニング

なにをしてもカンニング

作文もカンニング

公文式で同じ問題をやっている子がいないのにカンニングは笑うしかない。

 

私は父方の親戚の中で一番頭が悪い。

親戚の子は公立大学で今は結構良い会社の偉いさんだ。

それが親戚なので私の頭が悪いと宣伝をしてくれた。

引越ししてきた時に、「一+一=」と聞かれて、その一は何の一と答えて場合によっては一で、場合によっては二で、とか親戚の会合で話題になったのを話してたら、一タス一は一と中学まで言われた。

 

妾腹と言葉の意味も知らず低学年の時に使ったのもそいつ。

大手企業のサイトで偉そうな笑顔で幸せそうなナウ。

彼はきっと私のことは忘れている。

でも私は忘れない。

一生忘れない。

彼の父親がギャンブル狂で夜逃げしたこと、私は彼が何を広めても話さなかったが、彼は面白くないことがあると、皆に私や婚外子を産んだ母の悪口を散々みなの前で言ってくれた。

 

環境だね。

 

母が中学進級の時にその子とは同じクラスにしないでくれと頼んだので、それはかなった。

 

そういえば六年生の時に妾腹を揶揄われて自殺未遂をして、父親が村の有力者宅に抗議に行き、数日後に登校したら女子に囲まれ酷い目にあったし、失敗するならするなと親が言ってたという子もいた。

 

中学に入ると特別な地域の子たちも合流したが、ある日私が書いたという彼らの一人を侮辱する手紙が、なぜかその地域の一番の有力者の子に回った。

その文書には最後にその子に回して欲しいと書いてあり、正義感溢れる彼は私の担任の許可を得て、私を増築だらけの校舎の袋小路に追い詰めて、そこから部落の子たちがゾロリと出てきて書いた書いてないで大騒ぎになった。

あれは怖かった。

今思うと兵庫県は人権運動が盛んであったので、彼らはそれを見て育ったので意識が高い。

解放同盟って偉いよね。

 

で、長時間私が折れないので殴った子が出た。殺気だってきた。

命の危機を感じたが、書いてないものは書いてない。

そこに止めに入ったのが最初に決めつけた正義感溢れ過ぎてる男子。

あまりにも私が否定するので、おかしいと思い紙が回った順場を調べて、書いた子を突き止めた。

で、私の普段の行いが悪いということで、お開き。

彼らを怖がり遠巻きに見ていた友人が集まってきた。

誰だって自分が可愛いいし、仕方ない。

 

残念だったのは花とゆめの全員プレゼントのはみだしっ子のファイルが刻まれたことだ。

それぐらいで済んで良かったと思わなければならない程怖かった。

同じ頃兵庫県北部で起こった事件を考えたら助かったと思う。

 

あの、毛色の変わったものには人権がないと思える基盤はなんだろうと今も思う。

私には理解できない。

もしかしたらこれが差別と言われるものかもだが、純粋に理解できない。

彼らは増築された中学の逃げ場がない場所を私を取り囲んだことを忘れているだろう、彼らは自分たちは常に被害者だ。

私がどれほど怖かったか、殺される、殺されるなら一気に終わらせてほしいと願っていたとか知ったら「冗談だったのにオーバーやな」

「だから明石におられへんようになったんや」とか笑って済ましただろう。

彼らの団結力は強く弱いものを守るために戦っている。

 

 

 

今も明石に大事な友人がいるし同人仲間もいる美術仲間もいる。

明石の食文化や歴史は好きだが、見て見ぬ振りをする人たちは嫌いだ。

彼らは私のことを忘れているだろう。

もしくは冗談だったで済ますだろう。多数派だしね。

 

 

村社会の異端だった私は常に攻撃的にならざるを得なかった身構えていた。

私が参加したら楽しくないとか修学旅行に来るなとか平気で言う男子たちが大嫌いだった。

ミミズの解剖を、ミミズの内臓なんて単純だからしなくても良い。私はミミズを触りたくないと言ってからは上履き導入後の靴箱にはミミズがよく入るようになった。

ある子がSという男子がミミズを集めていると教えてくれたけど、どうしようもないじゃん。

男子たちはイラリとしたら靴に沢山のミミズを入れたり、フォークダンスで全校生が手を繋がないという公開処刑をするのは楽しかっただろう。

触ってしまったら砂で手を拭う。

腹が立ったので私もそうするようにした。

中学の男子はすべて敵だった。

彼らは私が中二の時に担任の小泉先生に泣きついた時に、「何故自分が言われるのか理解できない」と言っていた。

私の足を踏んだ靴を捨てるのはパフォーマンスでしかない。

ハロウィンの渋谷の交差点で軽トラを壊すのと同じような感覚だと思う。

オオ!と勇気を讃えられるのだから。

 

あ、傷ついたのは体育祭の応援団で、私に男子が学生服を貸さなければならなくなり、皆嫌がり、私に優しい女の子、Bさんが誰かに頼んで渡してくれたが、そのあと男子に制服が穢れると取り上げられて私だけ応援合戦でブルマーになった。

私に制服を貸す勇気を出してくれた男子は誰なのか。

その子が他の男子学生に何かされてないと良いなとは思った。

 

それと卒業文集に私の原稿があるのは嫌だと男子たちが揶揄ってきたので原稿は一度返されて、それを私が破り捨てたから文集に私の原稿はない。

ミミズを入れていた奴、姉がバレエを習うような家庭環境なので今も幸せだろう。

 

そう言えば部落の子に目をつけられたのは差別を無くすにはという討論会で私が「戸籍制度があり、その土地に住み続ける限りなくならない」と言ったからだ。

解放住宅や広い道を作れば目立つ。私はそう言った。

で、今は差別解消されているかしら。

 

私は自分が「生まれた時から戸籍が汚れているから結婚できないよ、勉強しなさい」と母方の祖母に言われたから県立図書館で戸籍制度を調べていただけ。ついでに水平運動も調べたし「破壊」も読んだ。

「戸籍制度がある限り」と私が言ったと怒っていた彼らは幸せなのかしら、彼らは権利を守る知識を持って育った世代だから幸せになっているかしらね。

 

でも戸籍制度を憎んでいるのは私なのよね。

婚外子で戸籍が六歳までなかったという事実は、何回結婚しても特別記載されているのよ。

私へのいじめの第一歩は私との口喧嘩で負けて、捨て子とか、妾腹と言い出した親戚の子から始まった。

それ言われると私が反論できないし、小学二年たちには面白い言葉だった。

その後喘息の発作を起こして教室で失神するまで苦しんだから気持ち悪がられた。

エンガチョと言われるようになった。

戸籍制度は自分の戸籍は嫌いだけど、遡って調べるには楽しい。

歴史好きとしては楽しいわね。

 

 

中二の頃には学校に行くのが辛かったが小泉という担任の先生が私に理解があり、ある程度救われたけど、中学の先生たちが本当に嫌いだった。

 

ミミズが靴箱に入るようになってから怖くて朝出かける前に優しい子に電話をするようになった。迷惑だとわかっていたけど、占いのような、すがるような、あれはダメだよなあ。学校に行っても良いと思いたくて電話をしていた。

よく怒らなかったなと思う。

申し訳なかった。

 

中学には私が知りたいことを教えてくれる先生は居なかった。国語も社会も理科も質問したらキレる。

小泉先生は良い先生だったけど。

社会科の定年間近の先生が博識で良かったのに怒らない先生だから授業は崩壊していた。

 

(先生が定年退職後に私が進学した高校に講師で来てくださって嬉しかった。

雑談も良くした、高校には本が揃っていたので、面白い本も教えて下さった。)

 

話しを戻すけど、そういう閉鎖的な村社会でしんどかったので、私は高校は彼らと同じになる可能性が少ない市外の神戸市の女子高を選んだ。女子校なら男子とは絶対に交わらないで済むもの。

 

入ったら天国だった。

ものすごく天国。

成績順でクラス分けされ、二年は希望進路も加味されるからさらに楽。

先生たちからは可愛がられて校長先生が全体集会で褒めてくれる。

小学の時の図工の先生は私の絵を好きだと言ってくれて、賞を取れたけど周りはズルだと言っていた。

 

高校では油絵も美術年鑑に載っている一流の先生が教えてくれる。

短歌もプロが教えてくれる。

礼儀作法も普通の礼儀作法の授業で、土下座の仕方を知らないと虐められることはない。(初めての土下座は村のお寺でだった)

数学の先生も数学科を出ている。カール・セーガンについても随分と話した。

科学も地学も楽しい。生物の先生も良かった。質問はいくらでも受け付けてくれた。

教科書も同じ教科でもクラスで異なり、面白い。

 

神戸市の沿岸部は開放的だった。

女子校なので風紀はすごく厳しいけど、私には関係ないし。

 

で、進学先もある程度決まり、ダメなら系列校って話の時期に父の会社がこけた。

馬鹿だ馬鹿だと言われた村を基盤とした生活は嫌。新聞配達をしながら進学するのを選んだ。

 

私は神戸市の高校を基盤とした文化教養的な生活が楽しくて仕方がなかったけど、大阪や京都まで行くともっと色々楽しいものがあったし、京阪神同人活動の仲間もできていた。楽しいモブだった。

 

その縁でできた新聞記者や出版社の人たちとの交流も楽しかった。

ので、もっと文化的な東京を目指した。

着いたら竹ノ塚で実は田舎で田畑があり、がっかりしたけど、竹ノ塚図書館あり、本屋とレコード店があり、プラネタリウムがあった。

 

配達することになった公団に住む人たちはインテリが多くて本を貸してくれたり、新聞配達をしながら勉強をするのを応援してくれた。

辛い時もあったしノルマは大変だったけど朝日新聞社から表彰状をもらうぐらい頑張った。

あの頃、竹ノ塚には夢があった。

 

明石の村はその後山の斜面を住宅地として売り、田んぼも住宅地として売り、今は蛍の里として知られている。

農薬を撒いていた田んぼは売ったし、工場も殆どなくなったから空気もよくなる。

私がいた頃は蛍の数は少なかった。でも夜網戸越しに観る蛍の光が好きだった。

 

私はあの村が嫌いだ。本当に石投げられて流血もあった。

女子も殆ど嫌い。

友人は元小作だった子と、鳥取村と呼ばれた狭い分譲地の子だけだった。鳥取村もその後できた県営住宅の子も馬鹿にされていた。県営住宅への差別は社会問題の一歩手前までドロドロしていた。

農地を持たないブルーカラーを本当に馬鹿にしてて、鳥取からの集団就職者をトタンのバラックに住まわせる工場経営者もいた。

鉄筋コンクリートの社宅を建てた家もあったけどね。

 

東京には地方出身者が溢れてて、変わった人も沢山いて、本が好きとか調べるのが好きとか、同人誌の交流会で討論するとかでは差別をされたことがない。

経済的貧乏でも知識が資産と見てくれる層もいたし、頑張って認められる存在になりたい人も山ほどいた。

 

生まれや資産でかさ上げされている人ももちろんいたが、当時は実力主義で形にしたら評価を得られた。カンニングだとか親にやってもらったとか同じ絵の具を使っているのに絵の具でズルをしたと言われることは東京ではなかった。

それで気が緩んだのだろう。

 

 

 

結構人を信用するようになっていた私は新聞記者に私がアメリカで撮影してきた写真とメモを貸したことがある。

それは両面を使った記事となった。

その男性新聞記者の署名記事になった。

 

体調が悪い時に若い編集に小説の原稿を渡した。

数ヶ月ぶりの編集会議で私が原稿を提出していないと編集長が怒った。

驚いたし原稿は渡してあると言ったら若い出世欲がある男子が「原稿は預かってますが元の状態では問題があり」と言った。

そして出てきた原稿の一部は書き換えられていた。

キャラクターの人格が変わって頭が良くなっていた。

友人にヘリコプターに乗せてもらい旧道跡を確認し足でも登って調べた現場のシーンも丸カットされ、美しい女性の見せ場になっていた。

残念ながら、すでに入稿ギリギリで私が折れるしかなかった。

作品は私のものではなくなった。

 

 

正義感に溢れて自信に溢れている男子だった。

頭が悪い私の文章を直してあげただけなのに、何故私が怒ったのか最後まで理解していなかった。

高卒に文章が書けると最後まで信じなかったな。

私のこと腐女子で戦記やってる変なオバさんと、堂々と本名で掲示板に書いていたし。

あたし、その時38歳ね。

確かにオバさん。

 

 

 

まあ、今はサクッと金を集める人が尊敬されるし、努力は東京で消耗していると揶揄される。

住んでる場所の地価がその人の価値だと言う層もいる。

東京生まれはその場所の地価て判断されるそうだ。

嫌な時代になったなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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竹ノ塚第三団地が私の配達地域で三百部を配達していた。

竪穴式の階段を他社が嫌うので、5階建のエレベーターなしは殆ど5階まで走った。
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ここは東海銀行が一階に入る団地。
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ここにも朝日新聞記者がいた。

奥様はお花の先生だった。
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ここにあった魚屋は六月まで営業してた。

当時と場所が変わっているけど、兵庫県ではホタテが育たないので、ホタテの殻付きをここで初めて見たし、買って食べた。

隣にあった住吉という肉屋のコロッケは最高だった。


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ここは平山ビルだった。

足立区で一番大きな電気屋さん平山電気があった。

平山さんは六月町の旧家で大きな屋敷があったがバブルでこけて、ビルの所有者も変わった。
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ここがピーアークの始点。
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ここには画材屋があり、毛が抜けない筆が買えたし、絵具も選べた。徒歩圏内で画材が買えるうえに新聞配達偉いねと負けてくれた。

明石市では画材屋が西明石にミタニが一軒あるだけだった。
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ホトリという店の跡地。

綺麗なふわりとした奥様が洒落た食器でパンケーキを出してくれた。
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実は地主の天ぷら屋さん。
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朝日新聞竹ノ塚西口店があった場所。

大家さんは天ぷら屋さん。

労働基準法全く守らず、店長は学生運動で火炎瓶を投げたのが自慢の人で「君は学生である前に労働者だ」が口癖だった。
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富士銀行があった場所は建物はそのままにドンキホーテ


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竹ノ塚神社。

終戦時の記念樹があった。
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イトーヨーカドーはまだ関西に進出しておらず、初めて見たのが竹ノ塚店。
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この団地は都営住宅で元々は被災者向け住宅で木造だった。
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花はどこでも美しくて好きだ。
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