熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

足立区の都営住宅の奥様

私は基本的に合わない人とは全く合わない。

 

団地住まいの頃に閉口したのは団塊世代のあるグループと合わなかったことだ。

東京が実家の奥さんとは話が通じるが、そのグループは自分たちが法律で、私が取材予定を入れてて飛行機や宿の手配も終わっていたのに、ボスが突然役員だった私に相談せずに集会を決めた。

欠席したいと言ったが、ボスはギャーギャー聞き取れない言語で話すので諦めて飛行機などをキャンセルして、集会で棟民浄化運動についてギャーギャーして時間を使い、違う日にキャンセル待ちで飛んで割引なしで宿泊してユンケルとカフェイン錠で仕事を済ませたことがある。

あの頃が彼女の最盛期であろう。

今は知らないが、私が介護で母宅に詰めるようになった時は、自転車置場に自転車を置いていると問題提起していたそうだ。

住所そこだし、棟費払ってたんだけどね。他の家族は住んでいたし。

私だけでは介護が大変になり娘も母宅で寝泊まりをするようになったら娘の自転車も問題にしたそうだ。

 

エレベーターが都営住宅につき始めた時に、署名運動をしようと言い出し、私が都営住宅に問い合わせたら署名ではなく立地と居住者の年齢とかで順番は決まっていると回答され、署名運動をしなかったら私のせいでエレベーターがつかないと騒ぎ、できたら綺麗に使いましょうやらなんやら貼り紙。

綺麗好きな奥様で、職業は福祉系の上位種。

 

職業に誇りを持っていたので、私の下賎な仕事ととはスケジュールの大事さが違っていたのだろう。

英会話は困らない程度にできた方だった。

NHKに出てたことを突然言われてからギスギスした。

NHKがお嫌いなんだろう。私は金もらってたし。

 

団地には色んな人がいて合わない人とは合わないけど、合う人とは合う。

ママ友たちには本当に助けられた。

介護で大変なときも彼女たちのおかげで数え切れないほど助けられた。

倒れた時の記憶はないが、娘が助けを呼んで色々してくれたそうだ。

みんなでプールや博物館に遊びに行き、学習玩具や本も融通しあい、コンサートも楽しかった。

彼女らの親も四大出とかインテリが多くて家族ぐるみの交流もあった。

バブルが崩壊してなかったら彼女たちと育児期を過ごせなかったかもしれない。

 

都営住宅は住宅に困った人たち向けの施設だ。

都心を空襲で焼け出されて、都営住宅に住み、オリンピックの再開発でまた移動させられ、また再開発で足立区の北はしの団地に住んだ人たちもいた。

彼女たちから聞く戦前の東京の話は楽しかった。

目が不自由な夫婦がいたけど、東京大空襲で目が焼けた人だった。

学徒で隅田川の遺体回収をした人もいた。その人は山手空襲で焼け出された。

 

仲が良かった奥様の一人に下谷区を焼け出された方がいた。

絵画鑑賞もお好きな方だったけど、一族が死に絶え、妹さんと自分だけが生き残ったので谷中の墓地を墓じまいしなくてはならないが、するのは切ないので、自分たちが死んだら無縁になるに任せるとしたと仰っていた。

 

私が谷中に嫁ぐことを喜んでくださり、墓参りの時に上野桜木か、東博のオークラでお茶をしましょうと話していたけど連絡がない。

 

そこの洗濯物が取り入れられていないことに気がついた隣人が警察に連絡をとり、ドアを開けたら倒れてて意識不明だったそうだ。

そのまま入院したけど、身内が団地にいないので何処に入院したのかは仲良しグループでさえ知らない。

遠くに転勤した息子さんがいるらしい。