熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

舎人ライナーに乗ってココスに行き #バビロニア した。

台東区にはココスがない。
多分。
千代田区秋葉原には#ギルガメッシュ王 が御座するココスがあるらしいが、若いオタクで賑わっているとの噂なので、始祖鳥でバードウオッチングしていた太古のオタクな私としては比較的空いている馴染みの足立区の江北のココスに行き可愛らしい #イシュタル を崇めてきた。












髪を染めてきた

谷中の初音通りの美容室ブルーさんでカットとカラー。
https://yanaka.blue/
美容師の星さんは介護の資格も持っておられて、謎菌に侵され二カ月入院して立つのも大変になった頃からお世話になっている。
楽なのよ。


このごく近所に熊谷登久平と長谷川利行が住んでいた。
二人は窓越しに話していたり、今は谷中はつね治療院になっている福井さん宅、長谷川利行の下宿先で酒を飲んで騒いだりしていた。

ここは熊谷登久平の次男である夫の寿老人の同級生の実家で、その弟さんも夫の友人で、夫が遊びに行くと「登久平と長谷川利行は騒がしかった」と先先代に言われたこともあったそうだ。
ある日夫が友人のお父さんに長谷川利行の絵があるのではないかと聞いたことがきっかけで、なんでも鑑定団の大発見に結びついた。

この番組を見ていた国立近代美術館の学芸員さんがいて、購入が決まったが、残念ながら報告書に夫は熊谷登久平のご子息とだけある。
この調査の時に徒歩五分の熊谷家に寄ってくれてたら、描かれた頃のスケッチブックがサクっと出て詳しく聞いていた義母から取材できたのになと残念に思う。

https://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/15_pp.60_73.pdf

横浜と熊谷伊助と岡倉天心と熊谷登久平と資料

洋画に進んだ熊谷登久平が岡倉天心にも憧れ荒れていた旧宅を買い綺麗にリフォームしたわけだけど、次男である寿郎にも天心語りをしていた。
天心は横浜の有力者の子ども。
熊谷家も横浜で伊助が活躍して有力者になっていた。
開港と開発の頃の横浜は狭い。
横浜開港資料館の館長さんが登久平の甥であり可愛がっていた英三さん宅に調べに行ったはずなので問い合わせた。
横浜は関東大震災と空襲のため多くの資料が失われており、その頃の資料はあまりないそうだが熊谷伊助の商売の規模と岡倉天心の家の規模を考えると知り合いであっても不自然ではないそうだ。
まあ残念ながら資料はない。
筆まめな伊助からの手紙が沢山生家に残っているが、それらはほぼ手付かず。
中にヒントがあれば良いけど、くずし字文書。
飛散することなく今もあることが奇跡に思える。

熊谷登久平の中央大学時代の資料も関東大震災で失われている。
卒業記録はあるし登久平がスクラップしていた新聞記事やアルバムの写真で美術サークルを作り、応援団の団長であったこともわかる。が、中央大学には記録がなく、美術サークルは画商の人が始めたのが元祖的な記録となっているし応援団も当時はなかったとなっている。
当時、中央大学になかったと言えば野球部で、野球人数が足らない都心の旧制大学のメンバーで野球サークルをやっていた。
が、これも記録が中央大学にはなく、野球博物館の図書館に問い合わせた。
そしてまだ未整理の部分で私が絨毯爆撃的に調べられる資料の存在はあるそうだ。
デジタル化する前の国会図書館の憲政資料室でやったことを21世紀にやるのか私。

もう老眼ですよ私。

市川市勝海舟による熊谷伊助への歌碑。
もうだいぶ調べたので、片瀬江ノ島写真館の熊谷伊助のご子孫でルーツが熊谷登久平と同じ家の当主さんに報告した。
歌碑が勝海舟が女を偲んだものとなっていること、直系のご当主も驚かれていた。
先代は鉄分濃かったと知り、夫と同じルーツだなあと。
伊助は本妻との間には子ができなかったが外にはできて養子に迎えたとの話もある。
幕末維新ならあるだろうってことで。

市川市の熊谷伊助の歌碑が、勝海舟のお手つき女性を思った悲恋の歌碑となっていること、横浜開港資料館の館長もご存じなくて驚いておられた。
説明文を書いた部署が市川市の歴史博物館でも文学資料室でもなく観光系の部署らしく訂正してもらうのが難しいとか話した。
熊谷登久平の生家に歌碑を建てた時の拓本が残っていて、伊助を偲んだもので間違い無いのだがお役所仕事は難しい。
また市川市の偉い人になっておられる歴史家が商業書籍で発表してしまっているうえ、立看板がドーンなので史実は塗り変わっているところだ。

お寺の住職夫人も戸惑っておられる。
どこをどうすれば書き換えてくれるのだろうか市川市







岩手県立美術館 。゚(゚´Д`゚)゚。

熊谷登久平の絵は展示されてないと知る。
義父の絵は全部倉庫だ。

美術館で熊谷登久平の絵が常設展示されているのは、甥で登久平と内縁の妻であった絹子さんが可愛がってて養子になる予定だった英三さんがつくってくださった岩手県一関市の千厩の日野屋の熊谷美術館だけだという衝撃っ。
英三さんありがとうございます。
長生きして欲しかった聞き取りしたかった。

熊谷登久平の絵は郵政省の美術館からも消えて、厚生省関係からも消えて、千厩小学校と中学校からも消えてて追跡できない作品が多い。千厩の役場からも一枚消えてる。
郵政省のは調べてもらって市川市の倉庫にあるらしいまではわかってる。
下谷警察のも倉庫。

気仙沼のも倉庫で修復待ち。
震災後、熊谷美術館に登久平の絵を引き取って欲しいとの連絡が沢山入ったそうだ。
登久平はふるさとを愛していたし、親友が住んでいたから沢山気仙沼を描いた。それらの絵を大事に持っていてくださった家が震災の被害に遭ったのだろうなと切なくその話を聞いた。
登久平の生家も震災で蔵がいくつかダメになり引き受けられなかった。
その絵たちはどうなったのだろうか。

登久平は地方の若い画家育成に力を入れていた。
なのに千葉県でも指導をしていたとの記録がありキッコーマンパトロンだったらしいが、蔵に住み込んで描いたという絵も行方不明だし、戦前からお付き合いがあった山形新聞関係のも消息不明だ。
山形新聞のワンマン会長であった服部氏が登久平の親友だったが、服部天皇と呼ばれた氏が亡くなったあと関係のものを山形新聞が手放したとか。

熊谷登久平の絵、たまにヤフオクに出てたりするけど、建て替え時に廃棄したのを産廃業者が転売するのだろうか。
何回も書くけど公的施設にあったはずの絵が出てたのは驚いたわ。被災地だから瓦礫と混ざったのだろうか。


長くなりましたが岩手県立美術館は常設展示だと思い込んでいたよ。
でもね、置いていただけるだけ有難いのよ。

あとね、うちも古い家だから先日の台風の時は揺れたし、壊れたらうちの収蔵庫の義父の絵がダメになる。
長谷川利行のスケッチブックは引取先があるけど。
あと原田光先生が本物認定したから、以前いらないと行った区が欲しいと言ってくださったり。
利行さんはきちんと保存される。
でも義父の絵はうちで朽ちていく。
私は熊谷登久平の血を残せないので絵だけでもと思うです。

台東区は上野の山の美術館全盛期ゆかりの画家たちの絵を収集してくんないかしら。
しないよね。
。゚(゚´Д`゚)゚。




適度な一日


息子夫婦宅にエゾジカの肉をおすそ分けでクール宅急便で送った。
そのあと夫の好きな製麺所で焼きそばの麺を仕入れて、千駄木の洋食屋さんキッチンマロでランチ。
世話になっていた朝日新聞団子坂店の店長の鎌田さんの奥さんにご馳走になった懐かしい味。
団子坂店は私の後輩が放火して奥さんは焼死した。
いまだに店があった場所の前を通ると心痛む。
私の最初の保証人だった。
ご自身が金の卵世代だから、新聞奨学生への思いやりがある女性だった。
お嬢さんはお元気だろうか。

千駄木は今夫のお母さまの店があったり、まあ色々あった街だ。
今の千駄木は意識高い系の店が増えてて田舎者の私は少し苦手。

絵の修復のベテランでもある方のアトリエにお邪魔して、雑談後、修復に使える和紙はどうなっているのか聞いたら、楮が足りないと、そして職人が減ったと。
なら水害にやられた古文書などの修復に足りるのだろうかと、文化を守るために職人育成をするのも大事ではないかと思ったけど、なんでもかんでも税金の無駄使いという層が増えたから厳しいなと思った。

今度処分する予定の美術関係書籍の中で欲しいものは持って帰って良いと言って頂けて嬉しい。
本来なら台東区が場所つくるべき蔵書なのにと思う。
知り合いの美術史専攻の子が欲しがっていた資料を数冊もらって帰った。
使用許可も頂いた。
義父さんのご縁のおかげです。











#江戸東京重ね地図 もいいものだ。

https://jhico.org/emt-s

江戸東京重ね地図は、江戸、明治、現在とかの地図を見られるアプリなんですが、明治40年頃の地図で我が家を確認すると 岡倉天心旧宅 と出る。
岡倉天心
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83

この家は以前銅ぶき屋根のお屋敷で、日本庭園があり、隣の日本美術院の日本庭園と対になっていた。
熊谷登久平の次男である夫が幼い頃に聞いた話しでは、元々は岡倉天心の屋敷であったが天心が校長をしていた美学校を追われたあとは、二代目校長高橋秀夫、三代目久保田鼎が住んだ(登記簿で確認済み)、熊谷家となっている平屋の屋敷は天心が美学校で教える時などに宿泊をしていたらしい。
天心亡き後、日本美術院をこの地に復興させようと願った弟子の横山大観たちが久保田鼎からか、その養子からか土地を現在の日本美術院の敷地を購入したが、資金が足らず横山大観などの弟子が購入した部分もあり、いくつかに分筆されていた。
それらは彼らが亡くなると美術院のものとなるようになっていたので今は美術院のものだ。

しかしのちに登久平が入手した土地は予算の問題で買えず久保田鼎の養子が相続したが手放し、震災後の復興特需で潤っていた大工さんが購入して登記している。がなぜか手入れがされておらず荒れていた。
それでも登久平たちには岡倉天心が住んでいた憧れの場所であり、いつかはみなで暮らしたいと思っていた。

色々あって生家の家業を継がず画家になりたいと言って勘当されていた登久平は二科展に入選したことで、勘当が解かれ、父親からはパリー行きもさせてやる、アトリエも買ってやると美術記者が記事で揶揄するぐらいの親バカをされて、おねだりしたのが岡倉天心旧宅らしい。
口添えを弟に頼んだとか。
この時、登久平もある程度持ち合わせていたが足りなかった。だが急ぐ理由があったらしいが間に合わなかったようだ。

で、岡倉天心旧宅をリフォームしてアトリエと皆で宴会できるようにしたとか夫には伝わっているし、千厩の親戚もそのように言っているが、ここが岡倉天心旧宅の証拠がなくて私は右往左往していた。

登記簿の最初は高嶺秀夫先生。
次は久保田鼎先生で一度手放し買い直している。その後は養子さんで次は大工さん。
日本美術院の百周年史も載っていない。久保田鼎の屋敷を買ったと書いてある。
天心記念五浦美術館にも問い合わせたけど、今私が住んでいる土地に天心が住んだのかは学芸員さんにもわからなかった。
横山大観先生が御存命の頃はふらりと訪れて縁側で義父と飲んで天心を偲んでいたそうだが資料はない。
上野桜木町会がまとめた上野桜木から谷中に住んだ文人たちの記録にもない。
台東区の記録にゃあない。台東区はかつて近代文化の坩堝であったことや芸大や国会図書館があったり、博物館だらけなどに甘んじている。
戦後50年頃は聞き取りなどを熱心にやっておられたのに今は丸投げで観光客向けの企画に金を出すところだ。旧浅草区と藝大と観光の植民地みたいなもんだ。
資料を探しても森まゆみさんで止まる。
彼女たちが頑張ったのを良いことに放置したような、そして残念ながら谷中学校とか若い人たちの町興し的な動きが出ても、彼らの多くは出世すると谷中を出て行く。
もしくは不動産業に勤しむ。

そんなこんなで岡倉天心旧宅説は証明が難しいと思っていたのに、アプリの江戸東京重ね地図の明治40年頃とやらにバッチリと。

元地図は地理院にあるんだろうか。
私はまた筑波に地図や航空写真を見る旅に出るのだろうか。
つか今はインターネットの時代なので調べられるのかな。

この地図が本当ならば、夫が義父と義母から聞いていた裏の墓地の大岡越前守の墓のような記念碑のようなもので、夫が幼い頃は大岡越前を演じる役者がお参りをしていたという場所が岡倉天心絡み説もありかもしれない。


http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/01_tenshin1.html
美術学校騒動
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E9%A8%92%E5%8B%95

日本修学旅行の父、高嶺秀夫

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%BA%E7%A7%80%E5%A4%AB

気苦労の人
久保田鼎
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E9%BC%8E

忘れられている人 熊谷登久平
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9199.html