大正12年8月28日、義母は浅草で生まれる。
義母の父親は植木職人で皇居にも入っており、なぜか大正天皇に遭遇したとかな話もあるけど確証はない。
義母の誕生日、8月28日かの確証が実は曖昧。9月1日の関東大震災で焼け出されて、火が回るまでに時間があり余震と地割れを警戒した父親が外に畳を敷いてその上で過ごしていたとかな伝承。
義母実家その後火災で何もかも無くすも一家は逃げ切り全員無事で、深川区にできた避難所で暮らし、生活のために義母は子のいない家に売られた。そのお金を元に父親は石屋を始める。
義母が養子に入った家は諦めていた実子に恵まれ、お金つけて返され、次の家に養子に売られると、そこにと実子ができるを繰り返し4回養子に行く。
その礼金で実家は生活も落ち着く。
義母は浅草の女剣劇の男役になり、結構人気だったそうだが詳細不明。劇団は北京に渡る。義母も北京へ。昭和20年に一時帰国し、3月9日に北京へ向かう。
実家、東京大空襲でまた全焼。
小学校の通知表の欠点欄に感受性が強いってのがずっとあって母が困っていたが、いまも大変なのかもしれない。
個性を大切にしてのばす教育方針だった私立の女子高では長所となったが、社会に出ると感受性は邪魔なものだった。
書くとまた不幸自慢となるだろうけど、来年の5月以降は用無しなので、ぽっくりと逝きたいです。
資料依存って普通の人からしたら異常ですか?
私は証拠を出せと言われるのが子どもの頃から怖いです。
あと、旦那さんがよく許してると言われるのも疲れる。