熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

勝海舟が熊谷伊助を偲んだ歌碑の市川市行徳の寺の案内板

この日記に何回も書いてるけど、義父の生家の岩手県千厩の商家日野屋出身の熊谷伊助の資料は関東大震災と横浜空襲で焼けてほぼない。
故郷の千厩も大火災があったそうで役所の書類が焼けていて欠けがある。

幕末に仙台の商店に修行に出だ時の年齢も14歳と19歳がある。
向上心高く仙台から江戸の商店へ、そして独立し大店になるも輸出に目をつけて外国語を学びペリー来日の時には名刺をもらうぐらいまで出世。
仙台では味噌屋に奉公していた。江戸では酒屋で奉公していた。などがある。

当時の手紙には年代が書かれてないから時系列がわからない。雷門焼失の手紙は年代がわかるけど。
伊助は江戸が荒れてくると、故郷千厩に手紙を送り出荷先を京都にするよう連絡をしている。
江戸の絹の相場をこまめに連絡して出荷の調整をしたりな人。

酒屋で奉公していた伊助が、どうやって生糸の相場を把握していたのだろうかと千厩の熊谷家に残る手紙を見て思う。



横浜開港にかかわり勝海舟の日記にも登場し、勝海舟の長男の留学費用も世話していた。
横浜の豪商の松屋の主であり、米国の商会の第一番頭でもあったらしいが謎だらけ。
松屋では漆の家具などを輸出していたらしいが、資料がない。


https://www.hamakei.com/amp/headline.php?id=5004

勝海舟と横浜との関係は深く、横浜有数の外国商館ウォルシュ・ホール商会の番頭の熊谷伊助と深い親交があった。
(リニューアルした横浜開港資料館で「勝海舟と横浜」展-無料公開 2010年4月10日のヨコハマ経済新聞の記事より。)」

伊助は水戸家からの帰りの籠の中で死んだと一族には伝わる。
その伊助を勝海舟が偲んだ歌碑が市川市の行徳にあるのだが、いつの間にか勝海舟が愛した女の歌碑との説明板が建っていた。

伊助の直系は驚くし、本家も驚くし。
で、何回か抗議をしても建てた市川市の責任者は部署が変わってて問い合わせ先さえ不明の状態で、本家やお寺さんに檀家総代さんの協力を得て資料を揃えて、市川市の歴史博物館の学芸員さんにも協力を得て案内板は訂正された。

けど、訂正が部分にシールをはったものだったので5月からの酷暑でシールが浮き、熊谷伊助の直系が案内板の代金を払うから直して欲しいとなるも、市川市で直してくれることになり説明の文章を伊助の直系や千厩関係、横浜開港資料館の西川館長にも相談しながら最終調整中。



勝海舟がよき友熊谷伊助を偲んだ歌碑。伊助は岩手県千厩の商家日野屋の出身で、横浜開港を支えた貿易商の一人」

案の一つ。

私には、わからないことだらけだ。


https://www.library.city.ichikawa.lg.jp/ref/ref1512.pdf

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188524



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