熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#東京航空計器製のニュースターは熊谷登久平が持ってきた。

我が家には熊谷登久平は東京航空計器で偉い人だったと伝わる。

また、元厚生省の事務次官、広島原爆投下時に広島に国家公務員として滞在し、東京に広島に新型爆弾が投下され被害甚大と第一報を送った太宰博邦さんが、義父のお弟子さんで、氏が御存命中に出た書籍にも熊谷登久平は東京航空計器の役付きと書かれてて、訂正もされてない。

ので、東京航空計器に問い合わせたら名はないと言われて、我が家には勤続記念の品や社員旅行の写真なども残っていると、私がしつこく食い下がったら資料を探し直して下さり、昭和19年に在籍した記録はあったとの回答であった。

葬式に東京航空計器から花も送られているのに感覚で、熊谷登久平が東京航空計器に勤めていて役員だった記憶がありそうな人、戦前から我が家に何度も泊まり、学生時代は下宿をしていた元千厩町長で、千厩の熊谷一族最長老91歳の熊谷儀一さん宅を訪ねて、色々と質問をしてみた。

儀一さんは狛江にあった東京航空計器に熊谷登久平を訪ね行ったこともあるそうで、役付きだったとのこと。

東京航空計器が敗戦で仕事先の空軍関係を失い、また日本が占領國によって航空機開発を止められた為に困っていたところ、義父が航空計器にある技術で映写機を作れると提案して出来たのが画期的な映写機のニュースターだったと、儀一さん。

この話は我が家の伝承通りだ。

で、私が千厩町にあるニュースターは義父が持ち込んだと聞いてて、千厩で大ヒットをしたから東北でも売れていったのはホンマでっかと質問をしたら、「ニュースター導入はオンさん(熊谷登久平)が、音頭を取り、(登久平の生家)日野屋が動き、公民館で上映会をしたら毎回大繁盛をしたもんだから、伊助さんが(日野屋三男)がテアトル東都を始めて(日野屋が資金を出した)成功したんだ」とのこと。

そのニュースターは今は一関市千厩の資料館に展示されている。

 

f:id:TokuheiKumagai:20190709234528j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234531j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234522j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234455j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234503j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234459j:image

f:id:TokuheiKumagai:20190711111933j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234452j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234509j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234512j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234519j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190709234516j:image

f:id:TokuheiKumagai:20190710002613j:image

儀一さん。

義父は熊谷一族で一番出世すると可愛がっていたそうだ。

下宿時代、屋敷で一番良い部屋を与えられ、食料難の時代に弁当も同居していた本家公認の内縁の妻が用意していたとか。