夫の父親である熊谷登久平の生家は岩手県の千厩にあり、登久平が育ったころは豊かな土地であったようだ。
その生家の蔵を改装し、夫の年上の従兄さんが造ったのが熊谷美術館で登久平の絵を展示してくれるというので義母が家にあった絵や資料を送ったという。
だが、義母も次男である夫も長男の久も現地を見た事がない。
できた頃にはもう義母も高齢。
その後倒れ、寝たきりになり、脳梗塞を起こし、喋れなくなり、胃ろうを受けて長男と次男は仕事と介護に追われて行ける状態ではなく、従兄さんが亡くなられた後に義兄が葬儀に参列し美術館を見られる状態ではなくて機会は失われ今に至る。
一昨年、私は千厩と合併した一関市に熊谷登久平のことと、資料と熊谷美術館のことを問い合わせた。熊谷家についての資料は送っていただけたが美術館の資料はなかった。
改めて役所に聞くのも変な気がしたし、連絡を取り合っている親戚に熊谷美術館はどうなってますかと聞くのも失礼。
そのうち観光客として行き鑑賞し、図書館と博物館で義母が送ったという資料を探してみようと思っていた。
夫より7歳年上の義兄は義母の葬儀時に体調不良となり、癌が発覚し1年半の闘病後亡くなった61歳だった。
今月夫は還暦になるが、去年我が家に落雷があって飛ばされてから半身に麻痺がでた。
心臓も悪くなった。
夫の父親である登久平は67歳で亡くなっており、彼は最近弱気だ。私は夫が知りたがっている登久平の若い頃を調べたくて谷中の資料や、図書館や博物館を調べたが資料はろくにない。
ネットで登久平の随筆を随分と引用している方に問い合わせたが返事はなく、サイトに資料一覧が増えていたが、その書籍も国会図書館ぐらいにしかない。古本屋では高額だ。長谷川利行について書かれた本だから高い。
ヤフオクで作品が三千円程度で落札されている熊谷登久平は昔は売れていた画家であったらしい。
毎年三越銀座店で開催していた個展の絵は予約で全部売れていたという。
講師をしていた永田町バリベア会も盛況でお弟子さんが沢山いた。
が、今我が家にファンとして連絡を下さる方は1人になり、ネットで長谷川利行の記事があると、登久平が書いた文章が引用されている程度。
画家として取り上げる記事は滅多にない。
美術手帳の元編集さんのサイトに画家として何をしたか書かれているが、あとは岩手県で生まれた熊谷登久平や千厩で生まれた、長谷川利行の友人という記述ぐらい。
私と夫が忘れられた画家というのは、あながち間違いではない。
去年没後50年だったがそれ以前に書物で登久平のことが書かれていても夫たちには連絡がなかったし、まあ、長谷川利行の書物で引用されているだけだが。
驚いたのが著作権が切れてないのにテレビ局が遺族に連絡なく随筆を使ったこと。
それは私が気がついて連絡をし、その番組で決められている著作権使用料を頂いた。
話しが逸れたが、私の体調が良い時に岩手県一関市千厩に行けるように熊谷美術館への交通手段や近所の宿、資料がありそうな旧町立図書館と博物館を調べていた。
熊谷美術館の記述も見ていたが、人がおらず気持ちを入れる缶が置いてあった。
扉が閉まっていたなどを見かけた。
ふとツイートで検索をしたら、画家さんが熊谷美術館で個展を開かれていたのを知った。画面を見ると登久平の絵は一枚もなく、絵は片付けられて熊谷美術館はアトリエとして解放されたのかと思い込んでしまったのが今日。
夫と人を呼べない画家の熊谷登久平の絵より、人気のある画家さんの絵を展示した方が街の活性化に役立つし、仕方ないねと話しツイートでも呟いた。
他の親戚からの登久平の生家が経営していたアトリエを閉じて、他所で経営していた書店を戻したと聞いていたので、トコロテン式に熊谷美術館がアトリエになったのだろうねと。
ある程度の絵はうちに残っているし、昭和天皇がご覧になってくださり話しかけてくださった絵も残っている。
足立区立郷土博物館にも絵を渡してあるし、熊谷市にも資料を寄託した。
台東区にも連絡をしたがスパッツと拒否られた。
随分昔、名が残っていた時代に下谷警察署に寄贈したスフィンクスの絵は長らく展示されていたが、警察署が改装になり町内会で交通安全教室などにも強力をしてきた夫が行方を聞いたが不明だ。
まあ、仕方ない、千厩にあるであろう紙資料を探せばいいねと夫と話していた。
そしたら熊谷美術館で個展を開いておられた画家さんがツイートを返してくださり、登久平の絵は普段展示されていること、2代目の館長さんが絵を修復にもだしてくださっていることなどを教えてくださった。
修復はお金がかかるし、その絵は千厩警察署を描いたもので登久平が画家を目指していた時に最初に権威ある賞を貰ったもの。
戦火を避けて千厩に疎開させていた時に一時期行方不明になっていたという作品でもある。
登久平は中央大学に進学するために上京して、それなりの仕送りをもらいながら親に内緒で川畑絵画学校で油絵を学び、大学卒業後に親が進める道を拒否したために勘当を受けた。
豪商の息子であった登久平は労働には向いておらず、生活に困窮し、車夫や似顔絵描きもやり、年上の恋人マサエに支えられながら千厩警察署を描き、それが賞をとり、勘当を解かれた。
その絵を修復していただけているのは有難い。
いつかは熊谷美術館に行き現物を見たいと私は思う。
そういえば教科書に載っているペリーの写真のオリジナルは熊谷美術館にある。実は熊谷家とペリーは縁も所縁もある。
追記。
受賞当時の岩手県の新聞記事には「坊ちゃん勘当を解かるる」という大きな見出しで掲載されていた。父息子のインタビューもある内容だった。
記事には写真も載りマサエと登久平が並び、マサエは奥様と紹介されている。
だが、マサエには戸籍がなく内縁のまま登久平と元日本美術院の一部であった屋敷に住まい、長らく妻として采配を振るった。
だが戦後、山形新聞の社長の招きで訪れた山形で、登久平は東京の戦火で家族とはぐれた浅草区生まれ22歳年下の房江に出会い一目惚れをし、彼女が探している家族を知っていると言い谷中の屋敷に連れて帰った。
屋敷にはヨコエマサエを含めて7人の愛人が暮らしていた。
房江は驚いたが登久平は本妻にするからと、房江を妻にし、貧困時代を支えたマサエ以外の女性たちを屋敷から出した。
子沢山の下町の石屋の娘に生まれ、関東大震災後に貧困化した家のために何度も養子に売られた房江は、山形で苦労はさせないと言った登久平に惹かれていた。
東京市の房江が生まれた浅草区は震災で焼け、次に住んだ深川区も焼け、焼けなかった高台の屋敷街に憧れもした。
房江とマサエは最初はぶつかったが登久平が悪いということで落とし所をつけ、夫の記憶にある2人は仲が良かったそうだ。
房江は何回かの流産後に長男久を生み、千厩の家も喜んだとか。マサエは久を可愛がり、7年後に生まれた寿郎も可愛がった。
マサエが体調を崩し介護が必要になった時に世話をしたのは房江で、マサエが亡くなり大阪の親族が遺骨の引き取りを拒んだ時は、遺骨を引き取り、義父が亡くなった後に谷中に作った墓地に登久平の墓石の斜め後ろにマサエの墓石も建てている。
マサエは登久平から渡されていた小遣いを貯めて久と寿郎名義の貯金通帳も残していた。その額は結構な額であったと夫は記憶している。