熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

岡田三郎助 メモ 他雑感とか

『医師も、親も、周囲も気づくのが難しい「女性の発達障害」 精神科医が指摘する“気づかれないリスク”(TBS NEWS DIG Powered by JNN)』

https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/4bc4928a9c4ee9603dc4a0deba7a94a0a142fbd8&preview=auto

ヤフーのニュースサイトで読んだ。

私は中学一年生の時の担任に「知能指数が高い知恵遅れ」と言われて母が泣いて大変だったんだけど、その時の担任はどこへ行けという助言もなく、面倒な子ども的な感覚で言っただけだった。

うん、こだわる性格は義務教育の公立の学校ではとても不便だった。

 

現代社会においては、効率よく仕事ができる、お金を稼げることが価値と考えられています』

 

で、これには今も悩まされていて疲れ気味である。

 

『ーー女性には、娘、妻、母、と価値観が変化するということもありますよね。発達障害の女性はいったいどうしたらいいのでしょうか。

「いわゆる“普通”とされる価値観ではない価値観に触れることが大事です。

例えば、現代社会においては、効率よく仕事ができる、お金を稼げることが価値と考えられています。でも本来は、それは価値観の一つで全てではないですよね。他にも価値はあるということを理解し、自分の価値観に組み込んでいくっていうのが、大事になります。
SNS、病院や福祉、患者会でもいいです。日常とは違う人たちの価値観の中に入ると、多分見え方も変わってくるし、楽になるのではないかと思います」』

 

私はアウトという雑誌で地域社会以外の似たような価値観の人たちと知り合えて、同人即売会や同人仲間ができて、同じ中学の男子と一緒の高校は嫌だと我儘を言って市外の私立の女子校に入学し、枠にはまらない私を高校の先生たちは才能と見てくださり救われた。

中学では何回も書き直しを命ぜられた作文が評価され、また体育が苦手でも、苦手な女子は多くいたので馬鹿にされることもなく。

今も価値観が違う人とは軋轢があり、そちらが普通なので上から目線で講釈をいただくのがしんどいけど、浮いている私を活かす業界の端っこに入れてお金になっていたのは幸せなんだろうなと思う。

 

で、拘りに縛られて生きてきた私。

今は夫から頼まれた熊谷登久平関係をやり始めて沼に落ちてしまっているが、パーツが見つかった時の喜びとやらに捕らえられてしまっている。

お金にはならない。

そしてかつての職業病が出て戦時下の画家たちのことが気になって仕方ない。徴兵逃れに美術教師もあったけど、戦局の悪化で彼らも戦地に送られる。

 

 

白石隆一画伯の評伝『美は脊髄にあり』に川端画学校で岡田三郎助に師事したとある。

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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%8A%A9

けど、あの時代に岡田三郎助に学ぶとしたら本郷洋画研究所ではないかしらと付け焼き刃な私は思ってしまうのですよ。

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川端画学校で岡田三郎助が教えていたという記録を私が見つけられないだけではありますが。

だから川端画学校で岡田三郎助に学んだというより昭和5年に東京美術学校の研究生となったとあるので、東京美術学校で岡田三郎助に学んだのではないのかな。

義父の熊谷登久平も目指していた東京美術学校

 

(1912年、岡田三郎助、藤島武二により、本郷区春木町に本郷洋画研究所が設置。

1913年、藤島、川端絵画研究所洋画部を指導のため岡田が指導。のち本郷絵画研究所と改称。1921年、所員有志、赤洵社展覧会を組織。1925年、本郷絵画展に改称。

1930年、春台美術展に改称(「近代日本美術事典」)。

義父の周辺だと野口良一呂が本郷で学んでいる。)

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%B4%8B%E7%94%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

 

 

夫が思い込んでいる熊谷登久平と白石隆一画伯は同門への不思議というか。

 

で、『美は脊髄にあり』は購読しているけど、しつこく書くが熊谷登久平は戦後銀行に勤めた経済人的な記述があり、わたしゃそれのソースを数年探している。

去年義父の故郷の千厩で熊谷登久平展を開催いただいた時に「戦後は銀行で働いておられたとか」といらしてくださった方から話しかけられた時は困ってしまった。

 

そして、夫と書いた記者が亡くなっていることを嘆く。

マジでソースを教えて。

 

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猫が光合成をするからなかなか谷中のヒマラヤ杉が撮影できない。
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よみせ通りの九州物産のお店の九州堂さん、ここでの営業は今日が最後。

美味しいのよ。
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荒川区の日暮里の繊維街の端っこにある緑に埋もれた洋食屋のニューマルヤさん。

おじさんが骨折をされてから長く休みになっている。
自転車で通りがかったらおじさんが愛車を磨いてました。
骨折は良くなられたそうですが80代という年齢的に考えることもあるそうです。
再開する時は突然にと笑っておられました。
写真にちらりとおじさん写ってます。

 

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除夜の瑞輪寺にて。
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