熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

でかるちゃーってカルチャーショックを表現できる良い言葉ですよね。

岩手に行くまでの日数がもうないことに気がつき、目上から経験談をお預かりするときは最低限の事前勉強をしておくという、雑誌記者時代の基本もできてないことに焦っている。

離婚した時に書庫としていた空間が減り、図書館で簡単に読めると思っていた美術史関係を真っ先に断腸の思いで捨てたんだけど、コピーが不自由な美術館の資料室にしかない本も多くて慌てて買い直している。

後悔した中でグラフィックデザイン関係の教科書がある。あれは頭が白紙状態でも学べるようになっていた良いものだったが、娘が油絵を高校でやめたこともあり色彩の教科書なども捨ててしまった。

色のコマだけの分厚い本はコンピュータのグラフィック技術が進化した今では時代遅れで手に入らないし、神田の紙問屋で買った紙見本には今はもう作られていない紙があり、義父の絵を観ていく上で参考になったかもしれない。

地方に住む思春期時代。
絵を描く少女たちが自然と集う画材屋があった。中にはその後漫画家として成功していく人もいた。
播磨地方の画材を求める人たちと出会えた兵庫県明石市西明石の画材屋のミタニは今もあるのだろうか。

西明石駅の新幹線の高架下が今思えば私たちのモンパルナスだったのかもしれない。

出来たばかりのステーション商店街の管理会社に交渉をして、壁を借りて展覧会をしマスコミに取り上げられていた15歳の私と西開地と藤村と寺田と高橋。西開地は4月12日生まれだから16か、寺田と高橋が9月の同じ日が誕生日。藤村は早生まれの1月だ。西開地には既に白泉社の担当が付いていたし、その後リユウを刊行した徳間にも担当がいた。その西開地の賞金を経費にしたこともある。


あの壁の展覧会は私たちが高校を卒業してそれぞれの道を歩むようになると、明石南高校美術部の西開地と藤村と寺田の後輩で、今も私の友人でもあり、娘の幼馴染の叔母でもある千秋たちに受け継がれた。

千秋とその従姉の光明さんこと、しっぽがない三代目会長二分の一が高校卒業後、油画科に進学した。
今は二人とも油画を描いていない。

西開地のご両親は英語が堪能だった。
藤村の父親はブランデーを嗜む人だった。母親は讃岐の血が流れており、彼女が教えてくれた魚住にできた讃岐うどん屋は絶品だった。今もあるのだろうか。
寺田の父親の人間関係のバランス感覚は物凄いもので、この人は中学校の先生より人権を知っているのではないかと不思議てあった。毛の長い猫を飼っていた。その猫が初めて見た長毛種だった。

高橋の母親はカンボジアで起きていることをわかりやすく話せる人だった。新聞より分かりやすかったし、ポルポトがフランス留学をしてフランス革命の流れをくむ教育を受けた人で独立運動を学んだ人だと知った。ベルばら大好き中学生には自由平等博愛精神が突き進むと文化大革命ポルポト事件のようなことになることがショックだったが、彼女はなぜあんなに詳しかったのだろう。私たちの仲間で唯一魚住町土着の兼業農家の奥さんだった。

あの頃の絵仲間のうち、千秋は来年のオリンピックの時に泊まりに来てるれる。美術部の仲間とともに。
千秋の妹のみゆきは私と同時期に女の子を授かり、子は胎児時代からの幼馴染となり、今も互いに神戸と東京で泊まりあっている。魂の双子というやつで示し合わせてなくても同じ服だったりする。

光明さんは今は、夫の後輩の妻だ。縁結びは私がした。同人界からも絵からも卒業している。
茶道と華道が免許皆伝で靖國神社羽田空港で着物姿でお茶のボランティアをしている。

彼女の父方の祖母は関東大震災東京市人形町で焼け出され、神戸に避難した家族の一員だった。神戸に一時避難のつもりできたら地震がない土地なことに驚き感動して移住した。
神戸にも関東大震災から移住した人向けの文化住宅や新興住宅地ができていた。

関東大震災特需の神戸の灘の造り酒屋はやり過ぎて傾くも、復興と万博とオリムピック召喚特需の東京市の銀座にカフェを出した。関西訛りのある女給頭やフジタデザインのあれこれで銀座のトップレベルのカフェとなったサロン春は上方の日本酒も売りの一つであった。

関西や関東の新興住宅地の6間の広さの道は関東大震災を教訓に作られた。

その道の何本かは神戸空襲の時には長田区の延焼を防いだ。少年Hの舞台となった映画館があった場所で、私も小学生低学年なのに従姉と二人で映画を観に行っていた。本屋も古本屋も絵も扱う古道具屋もあり、喫茶店は子ども向けと大人向けのコーヒーを淹れ分ける文化的な街であった。


関東大震災で焼け出された光明さんのおばあさまは女学生時代に絵を学んでおられた。晩年は講師もしておられた。地震のない生活は幸せだっただろう息子はキンデンの良い場所に就職していた。

あの日の朝、おばあさまは明石駅から徒歩圏の海が見えるマンションの部屋のベッドで眠っておられたが揺れた。怯えて動けなかった。地震がないと思っていた土地なので家具を固定していなかった。タンスがおばあさまの上に倒れかかったが、ありがたいことにベッドがあったので斜めで止まった。
それが畳の部屋で布団だったら亡くなられいたかもしれない。
しかしおばあさまに与えたショックは大きかった。

阪神淡路大震災の頃には人々は関東大震災人形町のアーケードの恐怖を忘れていた。アーケードができていた長田の商店街は焼けた。焼け止まりはアーケードが切れた場所であった。

(時代考証間違っていたらごめんなさい。
人形町の小さな出版社で版下をやっていた頃は焼け跡の残る明治座の向かいに古い家があり、猫がおり、私は猫に懐き。そこのおばあさんに東京大空襲関東大震災の話を伺ったのです。彼女は燃える明治座から聞こえる君が代の合唱を知っている一人でもありました。
その家の並びのほかほか弁当の上に私の勤務先はありました。裏は立派な庭園がある大家さん。
電算写植や写植、和文タイプライター、カッターナイフ、スプレーのり、定規、カッターシート、ロットリングとカラス口が私の仕事道具でした。
表現の自由論のちばてつや先生の原稿の初出本の版下を作った会社でもあります。)


私の知り合いの画家で東京大空襲で焼け出されて清澄庭園の池の中で一夜を過ごされた方がおられた。
旧友の多くが死に絶えた家もあった。
彼の家は戦後、多くの知り合いが関東大震災後に移転した地震がない西宮に住んだ。
彼は成長して画家となり社会主義国に評価されていた。彼のテーマは東京大空襲だった。恐ろしい絵だった。よく覚えている一枚は炎と髑髏と涼やかな水の中を泳ぐ錦鯉が描かれていた。
彼の家も阪神淡路大震災で被災し、作品の多くが被害にあった。世界は狭い。


私の思春期。
あの頃、須磨離宮公園には美術史の神様のような方がおられた。
本物のブロンズ像をデッサンしていたため私たちは包茎が男性の普通だと思い込んでいて、つか包茎って言葉も知らなかった。
インドのレリーフの本物を見たときのカルチャーショックも今思えば微笑ましい。



私の須磨の女学生時代に文学を教えてくださり、私に文学に進みなさいと言ってくださった奥田ぬい先生は女子師範で学ばれ、アララギ派の一員でもあったダメなところがあると扇子でピシピシ叩いてくださった。
先生、明子をお叱りくださいませ。
塩屋の海を眺める高台が実家でやはり国語の先生で私が漫画部を立ち上げるのに協力してくださり、馬場、巽と私が文化祭で展覧会をやる時に合宿に付き合ってくださった川端先生は戦後生まれだが既に定年退職をされている。
彼女と仲の良かった保健室の先生のお父様は海軍の方で雪風にずっと乗っておられた方で、私に資料をくださると、阪神淡路大震災の年度の年末に言ってくださったが、母校は震災でぺちゃんこになった。
私の絵の恩師の田中祐一先生の大作も失われた。戦後の空襲後に卒業生たちから寄贈された貴重な書籍の多くも失われた。


なんか世の中狭くて、凄いなと思うのは奥田先生と同級生で同門の高橋先生が舎人にお住まいになっておられて、高橋先生の孫娘さんが息子と保育園と小学校の同級生で、一緒に遊んだ幼馴染の一人。
そのお孫さんがアイルランド人の大学教授の娘さんで入り婿さんで、アイルランド訛りの口語で悩んでいた時に助けてくださり、その奥様はポルトガル語を学んでおられて、保育園にいたブラジルから帰ってきた人たちの育児に悩んでおられる時にポルトガル語で相談に乗った人でママ友だった。
綺麗な日本語を話す家庭だった。

私のママ友は綺麗な日本語を話す人が多かったな。

奥田先生を思い出して、懐かしさが広がる。次から次へと浮かんでくる。広いのか狭いのかわからない生活圏を思い知る。