熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

今日も寝込んでます。

それでも昨日よりは良いかな。

 

今週は市川の図書館と、墨田区にある資料を読みたいのだけど、今は足の浮腫みがひどくて朝はスリッパを履くのすら大変。

 

私の足はハイヒール時代に少し変形してて普段は神戸市長田区の星であったアシックスの革製のセミオーダーのスニーカーを履いている。とても楽。

今は本社東京だけどね。

 

色は黒なので親友のお母様が亡くなられた時の葬式もそれで出席した。

でも革製品は葬式ではダメだとかのマナーも出始めているので、面倒だな。

 

 

昔、神戸市長田区は東側に屠殺場があり、皮加工業者が多く家内工業的に靴を作っている家も多くあったが、ケミカルシューズの工場も多かった。

多かったというより世界に輸出する産業で、おかげで長田繁華街では靴が安く買えた。

でも阪神淡路大震災で多くが操業不能に陥り、なんとか復興が見え始めた頃には中国製品の質が上がってて日本市場の安いケミカルシューズは殆ど中国製になっていた。 

今どれぐらいのケミカルシューズ工場が残っているのだろう。

 

最近また女性のハイヒールが問題になっているけど、質の良い日本製のハイヒールを作っている業者さんには打撃だろうなと思う。

バブル期も問題になったが女性が働き手として求めらる時にハイヒールは機能的ではないとなる気がする。バブル期はリーボックの靴がスーツに映えると流行った覚えがある。

今度はどこが上手く時流に乗るのだろう。

 

私は革製の仕事靴はかなり長田で買っていた。

履いていると足に馴染むので楽だったが、震災後は買えなくなり、浅草の靴問屋で探すようになり、あと、明石市の森田で買えた刑務所の手作りの革靴を愛用していた。

 

そういえば足立区も靴職人が多くいて、イブサンローランの靴を作っていた人もいたが、そこは元幕臣の家で上野戦争で足立区に逃げてそこで匿われて所帯を持ったとかな家で、東大の学長になった会津藩の某氏に靴作りを勧められたと聞いた。

戸籍を取り寄せてもらったら旗本に名があった人が初代だった。

その辺は区史には書かなかったが、先祖が逃げたの恥じておられた。

堂々としておられて印象的だったのはマッカーサーを讃える石碑を建てた元小作さんだ。

マッカーサーのお陰で田畑が持てたと刻まれていたが、あの碑は今もあるのだろうか。

 

あの頃はポロポロと実は上野戦争で逃げてきましたって伝承が出てくる時代でもあり面白くもあったな。

あと鹿浜には織田信長の何番目かの息子が逃れて住み着いた伝承もあった。

 

 

とか脱線しまくり寝ます。

 

 

 

クロックスが流行った時は足が楽でよかったな、地下鉄にも履いて乗っている人がいっぱいいて。

また流行らないかなクロックス。