円珠院入ってすぐ
わかりやすく、スッキリした年表
以前熊谷登久平の概略がわかりにくいので簡単な年表が欲しいとの声がありましたので、概略の最後に年表のスキャンを貼ってあります。
その中でも、「TOHOKU/TOKYO 1925-1945 東北の画家たち展」の図録のものが分かり易いかな。
2000年4月8日(土曜日)-2000年5月14日(日曜日)宮城県立美術館。
写真撮ろうとすると猫が寄ってくるので、結構大変。
股間が痛い
今日まで山形美術館で開催されている服部コレクション展に展示されている昭和26年の作品「裸婦」
昨日も書いたけど熊谷登久平の戦後作品が展覧会に並ぶのは、一関博物館で20年ほど前に開かれた『鬼才 長谷川利行と二人 熊谷登久平・矢野茫土 一関ゆかりの画家 生誕百年展』以来。美術館では初めて。
その『鬼才 長谷川利行と二人 熊谷登久平・矢野茫土 一関ゆかりの画家 生誕百年』以外で熊谷登久平の戦後の作品が美術館・博物館の展覧会で展示されたことはあるのだろうかと昨日から我が家にある図録などの資料とネットで調べ直している。
東北だと2000年に宮城県立美術館に1927年ごろの作品「千厩警察署」が展示されたのがせいぜいで戦後作品の展示記録は出てこない。
それ以外は板橋区立美術館と青梅美術館。
じゃあ山形美術館が裸婦を展示してくれたのめちゃ有難いことだよね的なノリになっている。
山形には熊谷登久平の戦後の作品が沢山残っているが、それらの美術館展示の記録はないそうだ。
今回、選んでくださりありがとうございます。
あと山形の人が蔵王の写真を送ってくださった。義父が描いた角度とは少しズレるそうだが、綺麗な山だ。(掲載許可あり)
山形のホテルグランドが熊谷登久平の戦後の絵を展示したことはあるが、それは数に入らないと去年学芸員資格をもつ人から指摘された。
残念なのは湯河原にあった熊谷登久平の展示室があった宿泊施設。
厚生省の管轄だったために施設は売られて今は残ってないし、絵がどこに行ったのか追えてない。
青森の凍結した歩道で滑って転けかけたのを頑張って耐えたのが悪かったのか。股裂き状態で耐えたせいなのか今だに股間からお尻が痛い。
つか開脚してから4日目なのに痛み増してる。
多分筋肉痛もある。
なんであんな器用な滑り方をしたのだろう。
寒かったし痛かったけど棟方志功記念館行って良かったと心から言える。
ひねってなければ青森県立美術館にも行きたかった。
山形美術館 服部コレクション展 おしどり 山形と熊谷登久平
私が熊谷登久平のことをかき回していると不愉快に感じている方はこのブログを読まないでほしい。
のこのこと、登久平の死後50年近くたってから次男に嫁いだだけの素人が推定やら曖昧なことを繰り返してるわけです。
それが熊谷登久平画伯に対して失礼だととられるのは私はしんどいし、またここを読んでイライラされても困る。
私と熊谷登久平の次男である夫は調査を続けるつもりだから、露出を品がないとか嫌がる人とは相容れないです。
前にも書いたけど、郵便で脅迫状が届いたこともあるし変なコメントもたまにあります。
疲れます。
で、今回も推論です。
山形美術館に明日まで展示されてる熊谷登久平の裸婦。1951年の作品。
義父の死後に戦後の作品が美術館の企画展で展示されたの初めてかも知れない。可能性があるとしても山形美術館だけかな。戦後の絵も良いのに入選作品や長谷川利行の友人らしい作風のものが学芸員に好まれるのかな。
岩手県立美術館には昭和初期のものしかなく、残念ながら死蔵となっている青梅美術館のも初期と戦前のもの。気仙沼のリアス・アーク美術館にも私が関わったけど戦前の気仙沼の絵が入った。
青梅美術館から貸し出された作品が宮城県立美術館で展示されたことがあるそうだ。
板橋区立美術館でも戦前の作品が並んだ。
郵政省の美術館の倉庫に入っている作品は戦後のものであるけど冊子の表紙を飾った絵で展示実績はないと聞いた。
岩手県立美術館にある絵は萬鐵五郎の影響が強く出ている。だから収蔵したのではとの話しも聞いた。
今山形美術館で展示されている裸婦は戦後の作品ではあるが、やはり萬鐵五郎を感じる。
おしどりについて。
今山形美術館で開催されている服部コレクション。そこに展示されている「おしどり」。
この展示ではいつ描かれたのかは不明となっている。
私はこの作品を昭和13年(1938)、第15回白日会に出品した「おしどり」ではないかと推論している。
白日会は新春の開催される、なので描いたのは前年か。
この白日展には他に「裸女と果実」「桐の実」「内裏雛」「小野寺総監像」「雪山」を出品しており、内裏雛のサインと似ている。
この年、6月24日〜26日まで山形新聞後援、熊谷登久平畫伯渡欧記念展が農業会館開催されおり、展示されていた中に「おしどり」が含まれていたのでは。
それを服部社長が求められた、もしくは登久平が贈ったか。
それが今回展示された。
おしどりは1982年(昭和57年)3月31日に山形県の鳥に制定されたとか。
当時の山形新聞によると熊谷登久平は昭和10年頃から山形に通っていたらしい。
↓北京からの引き揚げ後に山形で芸者をやっていた義母の房江。
追記
「おしどり」は1991年11月8日〜11日に岩手県千厩の第20回千厩町産業文化祭で開催された「熊谷登久平画伯展」に貸し出されて展示されている。
(会場は千厩農村勤労福祉センター)
この展覧会に展示された作品の写真撮影など山形新聞社が協力している。
常磐線で仙台へ
大人の休日倶楽部パス。
おときゅうの利用期間が今日までだったので朝8時の常磐線の特急ひたちに乗り仙台に向かった。
ひたちに乗るのは予科練の慰霊祭で土浦に通っていた頃以来なので20年ぶりぐらい。
車両も代わり昔は自由席があったが今は全席指定席だ。
義父が好んで描いた潮来、鹿島神宮、香取神宮をまわろうかとも考えてはいたが体調を考えてよらず。
車窓から見た懐かしの土浦も再開発で随分と変わっていた。
元は乗り鉄だった私なので、青春18きっぷを使い在来列車で常磐線経由で仙台はしがらみが終わったあとの楽しみにとっていた。
東北線で仙台は経験済み。
残念ながら東日本大震災による被害で常磐線は一時期仙台まで途中はバスの時期があり数年前に全線復活した。だから還暦になってやっと常磐線で仙台まで行けた。
車窓から見える被災地、目立たない場所に黒いものが積まれていたり、立派な戸建が樹木に飲み込まれていたり。
除染作業をしているとの看板がある建物があったり。
学校の校庭に雑木と草が茂っていたり。
まだ、復興とは言えない眺めがあった。
それでも双葉をこえた相馬では二頭の馬が戯れているが見え、生活もみてとれて仙台に近づくにつれ日常が増えた。
仙台で降り、ランチを食べて東北新幹線のやまびこの自由席で上野に帰京。
萬鐵五郎と熊谷登久平
山形から山北線で仙台経由、新花巻に向かう。
途中、亡き母と一緒に行った山寺がある。あの頃の母は私よりずっと若かった。山寺駅から電話をしてさくらんぼ農園から迎えに来てもらいさくらんぼ狩りもした。40年近く昔の思い出だ。
山寺駅から見える山寺。
もちろん義父の熊谷登久平も描きのこしている。
私が観たのは戦後の作品だ。
そして仙台駅経由で新花巻に向かう。
仙台駅では千葉県が観光案内のイベントをしていた。ずんだシェイク飲んだ。
そして萬鐵五郎記念館美術館に向かう。
東京都台東区の池之端画廊と岩手県一関市の千厩での熊谷登久平120周年展。
いらした何人かのお客様から萬鐵五郎の影響が強いですねと言われ萬鐵五郎が気になっていた。
岩手県立美術館の常設で観ていたが、萬鐵五郎の故郷にある萬鐵五郎記念館にも多くの作品があり、旧制一関中学時代の登久平が憧れたのが理解できるのではないかとも御教示頂いた。
なので、行く。
新花巻駅で雪に降られてタクシーで萬鉄五郎記念美術館へ。
横降りの雪が霰になり凄く寒かった。
バスを待っていたら美術館は長い坂の上だからタクシーがいいと地元の人が教えてくださった。
美術館、確かに長い坂の上にあった。萬鐵五郎が通っていた小学校の跡地だとか。
萬鐵五郎の絵、当たり前だけど沢山ありました。
うん、義父の熊谷登久平が萬鐵五郎に憧れていたのは知っていたけど想像以上に影響大きいね。
めちゃくちゃ寒かったけれど、きて良かったです。
帰りは雪がやんでいて、長い坂を降りて土沢駅に向かった。
義父が描いた山寺
↓
仙台着
仙台から新花巻に行き、
↓萬鐵五郎記念美術館
熊谷登久平と長谷川利行と浅草で飲んでいた佐藤さんが上京前に勤めていた鉄道。
佐藤さんは戦後宮沢賢治研究会を立ち上げる。
彼のことは宮沢賢治の弟の清六さんが「兄のトランク」に書き記している。
で盛岡へ。
ビックリドンキーは盛岡発祥って去年知った。
その一号店へ。
今日の谷中のヒマラヤ杉
参考までにヤフオクに出ていた初期の熊谷登久平作品。
今は詐欺サイトに掲載されているのでご注意を。
↓熊谷登久平120周年展に展示されたものなど。