山形へ。
熊谷登久平が蔵王を描いた地に案内して頂けた。
感無量。
初婚では息子を産んでから嫁扱いになったが、今回は熊谷登久平の子の家族という立場で終わるんだなぁ。
子を産まないから夫との共同作業として熊谷登久平の啓蒙をやっているけど、勇み足ととられることが多くて、結果が小さいから仕方ないけど切ないなあ。
入院も3回してて疲れやすい自分の体力管理をして百の本を読んでも一行見つかれば御の字の作業を繰り返して。
動けない日は往診を頼むこともあり情けない。
公立美術館に認められてないとか、熊谷登久平は下手とか画家ではないと直接言われながら、紐付頑張っているけど、婚家の親戚からきついこと言われるとしんどい。婚家の一族関係を把握してないのでたまに混乱する。
登久平の甥の英三さんたちは書籍などの実績があるけれど夫には実績がないとか言われると悲しい。
その人は熊谷登久平の修復を弟子であった夫がやっていたのを知らないのだろう。
熊谷美術館や千厩役場にあった作品の修復は夫がやっていた。夫はバリベア会の会員だった。
病気と事故が重なり今はもうできない。心臓にサルコイドーシスを持ち遠出もできなくなった。
だから私を代理人として出向かせている。
それらの説明も難しい。
夫を放置して遊び歩いていると取られてる。
10月の熊谷登久平生誕120周年展にも夫でなく私が出向いたことへの批判を頂戴している。
もう疲れてしまった。
多分何をしても批判はくる。
電話で突然怒鳴られるのももうやだ。
新国立美術館に展示される予定まではつけたから、あとは私に文句ばかり言う人たちがやれば良い。
あと夫は熊谷登久平の著作権を持ってないそうだ。
登久平の長男の久が死んだことで切れたと判断されているのかな。
登久平の死後に義母は妾で入籍していないと思い込んでいた親戚がいて大変だったそうだけど、そちら関係だろうか。登久平と義母は昭和27年に入籍しているので長男次男共に嫡子。
熊谷登久平の著作権は死後に妻と2人の子に受け継がれ、妻の死後は長男の久と次男の寿郎に受け継がれ、久の死後は寿郎が持っている。
また熊谷登久平は日本の著作権法の死後50年から70年に改変された該当年、1968年に没している。
2019年には著作権保護期間が終了しフリーになる予定が20年延びた。これは場合によっては塩漬けとなる。
だからこそ、夫と私は焦って裏付けと紐付をしているんだけどね。
でも、熊谷登久平のことを私が、つまり無資格者、専門職がやってないから不満に思っている関係者もいて面倒だし疲れたわ。なら相応しい国家資格者を紹介してほしい。経費もお支払いしてね。
ここ数年、国家資格の専門職からは馬鹿記者と怒鳴られて馬鹿記者と連呼されて、資料泥棒扱いされて。それ調べて提供したのは旧姓の私ですけど的な。
有資格者からは登久平は下手だと人前で連呼され。
研究しているところへの問い合わせもしてるのにしてないと決めつけられて。
今年も早々からクレームが相次ぎ考えるのが面倒になる。
熊谷家の系図、ものによっては登久平の長男の久まで載っているから、寿郎を跡取りと認めないのかな。
息子夫婦宅の黒猫のくーちゃんと孫は元気だそうだ。
来週、山形美術館に行った後で熊谷登久平が憧れていた萬鐵五郎関係の絵を観たいと思い花巻の萬鉄五郎記念美術館に行く予定を立てている。
去年一昨年と熊谷登久平120周年展があり、その中で何人かが萬鐵五郎の影響が感じられるとおっしゃられた。
岩手県立美術館にも萬鐵五郎のコーナーがあり、数回訪ねてはいる、確かに登久平の中に似ているものもある。
戦前に故郷には萬鐵五郎がいる的なことも書き残しているし、上京して会いに行ったとも伝わる。
どうだろう。
岩手県立美術館の方、今年は熊谷登久平作品の展示はないそうだ。
二科展に入選した1930(昭和5)年の「落日」を私は生で見たいと願っている。生きてる間に展示はあるのだろうか。
この落日に描かれているガスタンクは長谷川利行も画題としている。
一緒に荒川土手を彷徨いてきた頃の作品。
この絵は我が家から岩手県立美術館が選んで持ち帰ったもので、修復の様子が放送大学で流れた。
熊谷登久平のファンがこれを我が家で見て購入の予定に入っていたが美術館に入る方が良いとなった。
代わりに白日賞の「小菅刑務所」を購入された。
どちらも荒川放水路沿いを画題にしていて、面白く感じもする。
https://www.ima.or.jp/collection/search-shiryo/
8日ぶりに外に出た。