『熊谷登久平画集(絵と文) 昭和16年発行 36㌻より、『潮來』(初出不明)
古い文箱のそこに潮來見番(いたこけんばん/花街の拠点)のあけ書がはいつてゐた。
芋銭(小川 芋銭/おがわ うせん/1868-1938/日本画家 俳人)や恒友(森田 恒友/もりた つねとも/洋画家/1881-1933)のよい畫趣であつた潮來。
あけ書のうらに鉛筆で「ここは加藤洲十二の橋よゆこ うか歸へろか思案橋」とかいてある。
伊勢の古市、出雲の大社、常陸の潮來など、伊勢音頭 で幕をきる、おこん貢(おこんみつぎ/ 歌舞伎の伊勢音頭恋寝刃)の芝居のようになつかしいもの である。
水戸光圀は水戸武士の士氣のにぶることを、心配して、水戸市中に茶屋、廓などを許さなかった。
そのかはり香取、鹿島のそば、大利根のながれる潮來 に、賦税のことなどおかまひなく、弓場、茶屋遊廓を許し、鄉みづから範をたれたらしい。
江戸をはなれた松前、津軽、南部、伊達、相馬の奥州 諸藩の千石船は、荒川沖をのぼり、利根を下って、明日はなにしおふ鹿島灘にかかるので、これら諸藩の御用船の船子達は、舟板一まい地獄のそこと、海のなぎないまでは、陸をはなれる別れの場所と、別れかねて日夜三昧、太鼓のおとがたへなかつたとは、古老の話である。
光圀みづから筆をとつて「潮來出島の眞菰(まこも)のなかにあやめさくとはしほらしや」と月の一日十五日藩中のものをしたがへて大名行列をつくって、女郎かひに出かけたとは光圀公はなせる城主であつた。
いくすぢにも流れゆく大利根の水に、うかれ太鼓や三味線の撥の音をきいてみると、田も畑も賣ってしもふといひたくなる潮來ではあったが、その 野趣も、コンクリートの橋が出来ては、よしきりや片帆とともに泣いてみることであらう。』
↓国会図書館デジタルコレクションより


↓義父が旧制一関中学時代(大正8年以前)に描いた潮来。雑誌か何かで観た相田直彦作品の模写と思われる。土下座🙇♀️

↓落札しました

第10回文展出品作1916年(大正5年)

白日会メンバーで熊本県の人吉(人吉旅館)に疎開中に亡くなられたんだ。
↓後列左端から熊谷登久平 不詳 不詳 村上鉄太郎 相田直彦

『相田直彦(1888-1946)あいだ・なおひこ
明治21年会津若松市生まれ。本名は寅彦。若松第一尋常高等小学校卒業。明治40年頃福島県立工業学校染織科を卒業した。上京して太平洋画会研究所に学び、のちに日本水彩画研究所に学んだ。第3回文展に入選し褒状を受け、翌年の第4回文展でも入選し褒状を獲得した。以後、文展、帝展にたびたび入選した。大正2年日本水彩画会の設立に参加。昭和4年白日会の創立会員となった。昭和12年第1回新文展から無鑑査となった。昭和21年、59歳で死去した。』
https://yuagariart.com/uag/fukushima32/amp/
UAG美術家研究所より。
人吉には白日会の宮崎精一さんがおられたし、
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8683.html
『加藤洲十二の橋』香取の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%A9%8B
↓香取神宮


↓鹿島神宮



↓潮来
