
義父の熊谷登久平がおそらく昭和19年に板に描いた桜。
この頃、所属していた独立美術協会の展覧会には当局の目があり。
私が確認している昭和19年の熊谷登久平の展示作品のサインは筆記体、もしくはブロック体のアルファベットから「○に登」であったり、ひらがなの「くまがい」となっていたり。時代をすごく感じる。
また独立美術協会には戦争画に協力的でないグループがあり、義父はその1人であったために絵具も手に入れにくく。
あれこれ厳しくなった19年の作品は塗り方を工夫し、また当局推奨の国策の茶色を多く使い描いている。
この桜は19年の塗りであるがサインが従来のアルファベットで個人的な作品だったのだろうなと夫と話している。
昭和19年、義父は従軍画家逃れでそれまで嘱託だった国策会社東京航空計器の正規社員となり、地方からかき集められた学生たちの世話係となる。
戦後東京航空計器の上層部が公職追放となると、残った旧制大卒として残留を求められ進駐軍との交渉などにあたり、尚且つ社内にある技術を活かして映写機を製作する。





