熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 第89回自由美術協会  間宮正 

戦前若い画家たちが自分たちを活かすために集った自由美術協会も今年で89回。

独立美術協会から出た人たちも多くいて。欲しい冊子もあったので鑑賞。

創立後時代が悪化していき自由という言葉が当局から睨まれ、また前衛的な創作も睨まれ、太平洋戦争開戦前年に『美術創作家協会』と名を変えた美術団体。

戦後80年の展示では考える作品もあり、色々。

 

 

 

https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%AE%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A-527567

『自由美術家協会 (じゆうびじゅつかきょうかい)
美術団体。1937年2月,長谷川三郎,村井正誠,山口薫,津田正周,浜口陽三,瑛九らによって結成された。35年ころをピークとする小グループによる前衛運動の中から生まれた,抽象主義を奉ずる画家たちの集団で,創立会員のほかに荒井竜男,難波田竜起,オノサト・トシノブ,中村真らもいた。軍国化の進行につれて前衛美術への圧力が増し,40年に〈自由〉の文字を避けて美術創作家協会と改称している。しかし46年に元に戻って再出発し,森芳雄,井上長三郎,麻生三郎,鶴岡政男,糸園和三郎らの参加で戦後美術の展開の大きな震源になった。その後,50年に村井,荒井,山口,矢橋六郎,朝妻治郎らが退会してモダンアート協会を,64年には森,大野五郎,寺田政明らが退会して主体美術協会をつくるなどの変化があった。同年自由美術協会と改称。絵画部と彫刻部をもち,毎年秋,東京都美術館で公募展を開いている。
執筆者:原田 実  出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」』

 

『自由美術家協会【じゆうびじゅつかきょうかい】
洋画,彫刻,版画の前衛的美術団体。1937年長谷川三郎,浜口陽三,村井正誠,山口薫らが美術界の革新を目標に創立した。以後毎年公募展を開催している。第2次大戦中美術創作家協会と改称したが,1946年旧称に復し,井上長三郎,松本竣介などを加え,1948年には彫塑部を設立。
→関連項目麻生三郎|井上長三郎|井上武吉|オノサト・トシノブ|野見山暁治浜田知明|村井正誠|山田正亮  出典 株式会社平凡社

 

 

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間宮正 (まみやただし、1911年 - 1984年12月29日)は日本の画家である。彼の作品は、 1936年夏季オリンピックの美術競技における絵画部門に出品された。

 

1936年ベルリンオリンピックの芸術競技は、5つの種目(建築、文学、音楽、絵画、造形)が行われ、スポーツ関連のテーマにインスピレーションを得た作品で競われた。

 

 

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https://taifuten.com/artist/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%AD%A3/

間宮勝
タミヤダシ(間宮正)
1911年 - 1984
台湾博覧会第6-7章(1932-33年)
埼玉県出身。作品「山鳥遊図」「園秋」「静寂の里」は、第6回・第7回台湾博覧会(1932~33年)に入選した。

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作品には「正」の字と落款がある。間宮正の父、竹峯も日本の画家であった。1920年の帝室絵画番付によると、竹峯は「独立画家」(文展、帝室博覧会、帝国博覧会に参加しない優れた画家)に分類されている。享年47歳、埼玉県北足立郡蕨町66番地に居住。人物画を得意とし、人物画や花鳥画に秀でた。『大日本画家名鑑』に掲載されている間宮正は、1911年生まれで、野田久浦に師事した。間宮正は花鳥画を得意とし、東京都下谷区谷中眞島町1-2の昭和アパートに居住した。1930年(昭和5年)第2回聖徳太子美術展、第11回帝展、1931年(昭和6年)第12回帝展に入選。1934年(昭和9年)には福田豊四郎らと新日本画研究会(1938年新美術家協会と改称)を設立。1936年(昭和11年)秋季文展監修展、1943年(昭和18年)第6回新文展に入選。こうした輝かしい画業にもかかわらず、東京を拠点とし、兵役のため台湾に渡ったことは明らかである。 1932年の台湾博覧会初入選報告書には、「台湾歩兵第一連隊一等兵、正は22歳にして連隊長官邸にてわずか3日間で日本画2点を制作した」と記されている。わずか3日間で日本画2点を制作し、しかも2点とも入選したという事実は、彼の才能の高さを物語っている。彼は戦後も1984年に亡くなるまで、東京の美術界で精力的に活動した。

 

 洋画家の大野五郎は3月7日、慢性心不全のため東京都あきる野市内の病院で死去した。享年96。1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をもち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行靉光、井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホフォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとなった。また、ここで田中佐一郎、中間冊夫、森芳雄、伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第17回二科展に「風景」「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」「Nの肖像」が入選、O氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎、寺田政明、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、松本竣介、麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離れ、寺田政明、森芳雄、吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品されることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した「靉光展 青春の光と闇」、91年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎―画業八〇年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品された。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴とするフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(366頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「大野五郎」『日本美術年鑑』平成19年版(366頁)
例)「大野五郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28358.html(閲覧日 2025-10-05)