朝、動悸と寒気、体温が34.2から38.3という乱れ。
がんばれ私の自律神経。ソラナックスと救心万歳。背中は痛いがカロナール。
おかげさまで昼前に落ち着く。
昼ごはんはチャーハンを元と残り物使って用意。
夕方にはユンケル投入し晩御飯準備する。今日はカレーで良いよね。
東北新幹線分離
最寄りの日暮里駅近くのトンネルから出たところで新幹線が分離したとか。西日暮里側で停車している。日暮里駅のライブカメラにその状況が残っていて、過密ダイヤの新幹線の速度が上がる前で良かったなと。
で、ヘリコプターがずっと上空を旋回している。
死者が出ない事故で本当に良かった。
↓写真撮影提供、太平洋美術会中の人。利用許可得てます。
↑写真撮影提供、太平洋美術会中の人。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/389953
『午前11時30分ごろ、東京・西日暮里駅近くを走行していた東北新幹線はやぶさ・こまち21号の連結部分が分離して、緊急停止した。(東京新聞)』
https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/detail.php?id=465
昔、1984年夏に(07月31日)兵庫県の西明石駅近くでの事故取材のヘリコプターが衝突して死者が出たことがあった。
墜落現場の西明石南町方面には先輩の家がありニュースを見て心配したものだ。電話をしたら「少しずれたら危なかった。航空事故って滅多にないのになあと。」
その翌年の夏、先輩のお母さまは大阪行きの日航機に搭乗されていた。
あの夏、先輩に頼まれた本などを持って訪ねた待機所にもヘリコプターの音が響いていた。
その体育館の中は氷の柱が置かれて大きなテレビがつけっぱなし、喋る人はなく、アナウンスがかかると静かだった館内が動き、そして該当する関係者だけが走って出ていく。
ヘリコプターと高校野球中継の音、動いているのは扇風機だけだった。
『大阪エアウェーズ株式会社所属アエロスパシアル式AS355F型JA9581(回転翼航空機、以下「A機」という。)及び毎日新聞社所属ベル式206B型JA9101(回転翼航空機、以下「B機」という。)は、昭和59年7月31日明石市西明石南町で発生した事件の取材飛行中、13時02分ごろ接触し、同所に墜落した。
A機には機長ほか同乗者2名が搭乗していたが、墜落時に全員死亡した。B機には機長ほか同乗者2名が搭乗していたが、全員重傷を負った。地上の1名が軽傷を負った。
両機とも大破したが、火災は発生しなかった。』
以下、独自美術協会の野球チームのことフェイスブックとXにも投稿しています。義父ポーズとっているので本来はカメラ目線だったのがマウンドで何かあったのかな。
真ん中の人頰緩んでいるし、左端の人も嬉しそうな感じ。この二人はどなただろう。
義父のスクラップとアルバムに残っていた独立美術協会の野球チーム、独立軍の様子。
3人写る右端が独立美術協会応援団長の熊谷登久平(中央大学応援団の元団長)。
ユニフォームなどは林武さんが用意したと夫は聞いている。奥様が用意するお弁当が豪華で、義母も衣子さんやお手伝いさんたちと頑張って用意していたとか。百貨店から色々届いたとか。
夫の思い出話しは美味しいものといつもセット。
彼らは我が家で集まり飲むこともあったとか。幼い夫の記憶では独立の文字も林武さん。それが林武さんがユニフォームを用意したからの連想で記憶に残っているのか、本当にレタリングデザインまでされたのか。
残念ながらコロナ禍が終わったらその話しも聞く約束をしていた入江先生は亡くなり、戦前もあったという野球試合の話しを知る人はいない。
写真は都立美術館の場所にあった野球場だとか。
戦前の試合の資料は見つからず。
その野球場が美術館建替えのために閉鎖される時の美術団体の試合は凄かったと幼かった夫の記憶。
血中酸素98
機械脈85
脈実測78 リズム不正 二段一段飛ぶ
体温脇36.7
体温額36.6
血圧154-86